抱えるものが多いときどうすればいいですか
私は今大学生で、抱えるものが多く、どうしたらいいかわからず、投げ出したいと日々思っています。
部活では今年は自分の大学が主催することになっている大会の運営をしなければならず、何をどうすれば上手くいくのか考えてもわからず、結局何もできず時間が過ぎている気がします。さらにそれに重なって試験もあり、バイトもあり、爆発しそうです。
バイトに関しては2つ掛け持ちしていますが、どちらも時期が中途半端で今すぐにはやめられません。
試験も迫っています。
すべて自分の優柔不断さのせいでここまでいろんなことを抱え込んでしまったということはよくわかっています。
やめようと思えばやめられたはずなのにやめていない自分が悪いです。
でも自分の性格のせいで誰にも素直に相談できません。
できることなら部活とかバイトとかすべて放り出して楽になりたいです。
辛いです。こんなとき何を生きる糧に頑張ればいいのでしょうか。
まとまりのない長い文章で申し訳ありません。
お坊さんからの回答 3件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
🍙おにぎりの達人は握らない
🍙「おにぎらず」が世に広まって市民権を得てからだいぶたちますわな。
日本にはおにぎりの仙人・神様とよばれるオニギリマスターたちが存在します。
先日もテレビで紹介されていましたが、おにぎりのマスタークラスたちはほとんど握っていません。むしろまな板に載せる程度。
自分で握ろうとも!掴もうとも!抱えようともしないっ。(# ゚Д゚)
🍙おにぎりなのにオニギラズ!御握らず!なり。
これは仏法の妙理に通じます。
私が、おれが、自分が「やろうとしない」姿勢。
これぞ「般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)」のオニギリ行なのです。
剣道のマスターたちが剣を構える時に握っているということがあるでしょうか。
坐禅のマスターたちに「座っている」などという意識はありません。
道路工事のマスターたちは重機を操ること自己の身心のごとし。
あなたは持っている。握っている。持たされている。
その手を離すことです。
手を放すとは「オレがこうした方がイイ」と思っているオニギリを止めることです。
近所にある百円ショップができたての頃、物珍しいものをシコタマ買い込んだ時の事でござる。
両手にビニール袋、袋の中にいっぱい詰め込まれたの百円グッズ!
ろくすっぽ使いもしねーのにいっぱい買い込んで!
狭い廊下を通ろうとしたその時…!
(# ゚Д゚)「…通れない…!」
私が持っていたビニール袋を即座に手放したことは言うまでもアラジンです。
その道をゆかんとすれば、邪魔なものは持たないに越したことはない。
あなたは抱えているのでもない。持ち物が多いのではない。
その時、その場、その瞬間には「ひとつのことしかない」ということをしらないまま「沢山俺は背負い込んでいる」という錯覚にとらわれているだけなのです。
何故なら、その証拠に、今あなたはこの文章を知らずに読んでいたはずです。
何も今抱えていることなどなかったはずです。
「持っている」と思い込んでいることと、肉眼に映し出される実際、現実で行われていることとはまるで別なのです。
バイトの時はバイト。
試験で文字を書くときには文字。
バイトの時に鉛筆もシャープペンも持っていないでしょう。
今の現実は今の現実。肉眼が映し出していることしか行われていません。
その時、その場、そのことをやるだけ。
それがオニギラズの精神です。
一物あればおニモツなり
無一物 握るものなく 余物なし
あれもこれも、と欲張ったら、最終的にきついですね。そこになって初めて気がつく自分の愚かさです。あなたは今気づいたのですから、さっさと断捨離と交通整理をしましょう。
準備のやり方もわからず引き受けた大会、これは頭を下げてどなたかにやっていただくか、それが無理なら、やり方の筋道をたててもらいましょう。
バイト2つに部活、無理です。経済的に大変ならバイトだけ、そうでないのなら部活。信用を失うことにはなりますが、本分の勉強ができなかったら何にもなりません。
すべては、きちんと計画的にやらなかったことに原因があるのですから、「今やめるなんて無責任だ!」と言われても、「本当に申し訳ありません。すべては自分が無責任だったんです」ときっちり頭を下げて、生活をリセットです。このままいくと、大会→ヤバい、バイト、部活→中途半端、きつい、勉強→後回しとなります。
今はチャンスかも。いったん荷物をおろしましょう。
🍙おにぎりの達人は握らない
🍙「おにぎらず」が世に広まって市民権を得てからだいぶたちますわな。
日本にはおにぎりの仙人・神様とよばれるオニギリマスターたちが存在します。
先日もテレビで紹介されていましたが、おにぎりのマスタークラスたちはほとんど握っていません。むしろまな板に載せる程度。
自分で握ろうとも!掴もうとも!抱えようともしないっ。(# ゚Д゚)
🍙おにぎりなのにオニギラズ!御握らず!なり。
これは仏法の妙理に通じます。
私が、おれが、自分が「やろうとしない」姿勢。
これぞ「般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)」のオニギリ行なのです。
剣道のマスターたちが剣を構える時に握っているということがあるでしょうか。
坐禅のマスターたちに「座っている」などという意識はありません。
道路工事のマスターたちは重機を操ること自己の身心のごとし。
あなたは持っている。握っている。持たされている。
その手を離すことです。
手を放すとは「オレがこうした方がイイ」と思っているオニギリを止めることです。
近所にある百円ショップができたての頃、物珍しいものをシコタマ買い込んだ時の事でござる。
両手にビニール袋、袋の中にいっぱい詰め込まれたの百円グッズ!
ろくすっぽ使いもしねーのにいっぱい買い込んで!
狭い廊下を通ろうとしたその時…!
(# ゚Д゚)「…通れない…!」
私が持っていたビニール袋を即座に手放したことは言うまでもアラジンです。
その道をゆかんとすれば、邪魔なものは持たないに越したことはない。
あなたは抱えているのでもない。持ち物が多いのではない。
その時、その場、その瞬間には「ひとつのことしかない」ということをしらないまま「沢山俺は背負い込んでいる」という錯覚にとらわれているだけなのです。
何故なら、その証拠に、今あなたはこの文章を知らずに読んでいたはずです。
何も今抱えていることなどなかったはずです。
「持っている」と思い込んでいることと、肉眼に映し出される実際、現実で行われていることとはまるで別なのです。
バイトの時はバイト。
試験で文字を書くときには文字。
バイトの時に鉛筆もシャープペンも持っていないでしょう。
今の現実は今の現実。肉眼が映し出していることしか行われていません。
その時、その場、そのことをやるだけ。
それがオニギラズの精神です。
一物あればおニモツなり
無一物 握るものなく 余物なし