この問答を娑婆にも伝える
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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誰が責めても責められない心の求め
昔は人の言葉に弱かった私ですが、ある時に仏教を学んでどんな悪口でも悪意でも、最終的にその行為や言動に悪い意味を自分が添えることで脳内に悪いものとして機能することを学びました。
すると人の言葉や悪意の行為にムダニ傷つかなくなりました。
山奥に書いてある「死んでしまえ」の言葉には誰に向けられたものでもなく、誰が受け止めるべきものでもないものです。
人の世にあって、人の世の中で、人の心が、人のルールで、人を立てて・用いる・運び来ることで、そのものが人間流の意味を持ちます。
元々誰のものでもなかった行いを、わがこととして過剰に問題視することで、より一層心は傷ついてしまうものなのです。
たしかに、その人はたまたまそういう人が聞いてうれしくならない言葉を発してしまったのかもしれません。
ですが、その言葉をひきよせて、わがこととして、自分を苦しめるように受け止めてしまっていることはありませんか。
世界中にジュータンを敷くことは不可能であっても、自分の足にジュータン一枚巻きつけることぐらいはできるものです。
それでは、私は人の言葉よりももっとイタいチクチクする草むらの中に厚めの服を着て、草刈りをしてまいります。
良い一日を。
本当の良い一日とは、何があってもよりよく転がせる一日です。
心のクッション、厚めにしましょう。
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有り難し