瞑想や禅
瞑想や禅やマインドフルネスなどをしようとすると、しなきゃいけないと思うのか、
気分が悪くなります。
ですので、歩いているときに意識したり、
食事をしているときに意識したりと、
簡単なことからやっていこうと思ってやってみたのですが、そこでも、瞑想をやっている、と強迫観念があるのかわかりませんが、気分が悪くなってきます。
ですので、ここ半年は瞑想や禅やマインドフルネスなどはやっていませんでした。
しかし、瞑想や禅など、どんな形であれやっていた当初のことを最近思い出して、その時の自分と今の自分を比較してみたら、人の発言にすぐ反応してしまって、疑いもせず思考の声を信じきっている状態で、もう一度瞑想や禅をしたいな、という気持ちが現れてきました。
そして、また瞑想や禅に挑んでみたのですが、半年前と変わらず、気持ちが悪くなってしまいました。
生活に支障が出るので、今はやっていないのですが、どうにか瞑想や禅をすることは出来ないでしょうか
ちなみに半年前は頭の痺れが現れると書いて相談致しました。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
坐禅や瞑想は能動的に「やる」もんじゃない。
パソコンもポインターを動かさず放っておけばスクリーンセーバーが起動します。
坐禅や瞑想は能動的な意識を「休める」のです。維持とか集中はしない。そのコツを指導してくれる指導者の下でならうとよいでしょう。
自分に何かを「させる」「する」のは坐禅や瞑想ではありません。
日常盛んな能動意識を動かさないスタンスなのです。
人間はいつの間にやら勝手に起動してしまうアプリのように、自分意識・私意識・自分自分と認める自分を中心とする意識が「立ち上がって」いるのです。
坐禅は、能動意識を一切用いないから、自己を忘ずる状態になる。
そうすると内なる思いに反応する自分アプリがオフになる。
自我意識がオフになった方体で生活をしていれば、そのことが「ただそのこと」になる。
そのことに対する突っ込みを入れなくなるから、障りが生じない。
そうすると自己の身心スクリーン上に現れる一切のものが、あなたの名前のように無常なる諸々の行(あらわれ)となる。鏡にものが映っても残り物が無いように、心に障りがなくなる。
常に自己が何もせんでも救われている状態を悟る。
やがて、物事には一切の人間の見解(思い・考え・名づけ・意味・価値)が伴わないままの本当の価値・本当の出会いを見出せるようになる。それが諸法の無我なる様子。
この自身は無我が本来性ゆえに、何もせんでも元々自由な働きをしています。
そこが分かると、自身の精神的な活動・作用に対し、取り扱う自分が機能しない=無我なので何のとらわれも引っかかりもないようになれるのです。
今のあなたは手を付けている・触っている・問題にしているのでしょう。
こうして、携帯、スマホ、PCをいじりながら周りの音、外の音、テレビの音が流れていても気にならんように、何が心に生じても邪魔にならんようになるのです。
坐禅は「やる」ものではありません。DOじゃないのです。BEでもありません。
行為を必要としないスタンスなのです。
曹洞宗ですら立場だけ偉い道心のない坊さんが只管打坐をJUST SITTNG と訳し坐禅をしっちゃかめっちゃかに指導しています。一ミリでも間違えるとえらいこっちゃな「座」禅になる。「坐」禅です。何かを習うならきちんと正しく指導してくれる指導者の下で学ばないと手ごたえはありません。
実効性がない、確かな実感を得られないものは、やっぱり「何か」が違うのではないでしょうか。
質問者からのお礼
ありがとうございます、