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瞑想や禅

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有り難し有り難し 19

瞑想や禅やマインドフルネスなどをしようとすると、しなきゃいけないと思うのか、
気分が悪くなります。
ですので、歩いているときに意識したり、
食事をしているときに意識したりと、
簡単なことからやっていこうと思ってやってみたのですが、そこでも、瞑想をやっている、と強迫観念があるのかわかりませんが、気分が悪くなってきます。
ですので、ここ半年は瞑想や禅やマインドフルネスなどはやっていませんでした。
しかし、瞑想や禅など、どんな形であれやっていた当初のことを最近思い出して、その時の自分と今の自分を比較してみたら、人の発言にすぐ反応してしまって、疑いもせず思考の声を信じきっている状態で、もう一度瞑想や禅をしたいな、という気持ちが現れてきました。
そして、また瞑想や禅に挑んでみたのですが、半年前と変わらず、気持ちが悪くなってしまいました。
生活に支障が出るので、今はやっていないのですが、どうにか瞑想や禅をすることは出来ないでしょうか
ちなみに半年前は頭の痺れが現れると書いて相談致しました。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

坐禅や瞑想は能動的に「やる」もんじゃない。

パソコンもポインターを動かさず放っておけばスクリーンセーバーが起動します。
坐禅や瞑想は能動的な意識を「休める」のです。維持とか集中はしない。そのコツを指導してくれる指導者の下でならうとよいでしょう。
自分に何かを「させる」「する」のは坐禅や瞑想ではありません。
日常盛んな能動意識を動かさないスタンスなのです。
人間はいつの間にやら勝手に起動してしまうアプリのように、自分意識・私意識・自分自分と認める自分を中心とする意識が「立ち上がって」いるのです。
坐禅は、能動意識を一切用いないから、自己を忘ずる状態になる。
そうすると内なる思いに反応する自分アプリがオフになる。
自我意識がオフになった方体で生活をしていれば、そのことが「ただそのこと」になる。
そのことに対する突っ込みを入れなくなるから、障りが生じない。
そうすると自己の身心スクリーン上に現れる一切のものが、あなたの名前のように無常なる諸々の行(あらわれ)となる。鏡にものが映っても残り物が無いように、心に障りがなくなる。
常に自己が何もせんでも救われている状態を悟る。
やがて、物事には一切の人間の見解(思い・考え・名づけ・意味・価値)が伴わないままの本当の価値・本当の出会いを見出せるようになる。それが諸法の無我なる様子。
この自身は無我が本来性ゆえに、何もせんでも元々自由な働きをしています。
そこが分かると、自身の精神的な活動・作用に対し、取り扱う自分が機能しない=無我なので何のとらわれも引っかかりもないようになれるのです。
今のあなたは手を付けている・触っている・問題にしているのでしょう。
こうして、携帯、スマホ、PCをいじりながら周りの音、外の音、テレビの音が流れていても気にならんように、何が心に生じても邪魔にならんようになるのです。
坐禅は「やる」ものではありません。DOじゃないのです。BEでもありません。
行為を必要としないスタンスなのです。
曹洞宗ですら立場だけ偉い道心のない坊さんが只管打坐をJUST SITTNG と訳し坐禅をしっちゃかめっちゃかに指導しています。一ミリでも間違えるとえらいこっちゃな「座」禅になる。「坐」禅です。何かを習うならきちんと正しく指導してくれる指導者の下で学ばないと手ごたえはありません。
実効性がない、確かな実感を得られないものは、やっぱり「何か」が違うのではないでしょうか。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます、

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