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瞑想や禅

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有り難し有り難し 18

瞑想や禅やマインドフルネスなどをしようとすると、しなきゃいけないと思うのか、
気分が悪くなります。
ですので、歩いているときに意識したり、
食事をしているときに意識したりと、
簡単なことからやっていこうと思ってやってみたのですが、そこでも、瞑想をやっている、と強迫観念があるのかわかりませんが、気分が悪くなってきます。
ですので、ここ半年は瞑想や禅やマインドフルネスなどはやっていませんでした。
しかし、瞑想や禅など、どんな形であれやっていた当初のことを最近思い出して、その時の自分と今の自分を比較してみたら、人の発言にすぐ反応してしまって、疑いもせず思考の声を信じきっている状態で、もう一度瞑想や禅をしたいな、という気持ちが現れてきました。
そして、また瞑想や禅に挑んでみたのですが、半年前と変わらず、気持ちが悪くなってしまいました。
生活に支障が出るので、今はやっていないのですが、どうにか瞑想や禅をすることは出来ないでしょうか
ちなみに半年前は頭の痺れが現れると書いて相談致しました。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

坐禅や瞑想は能動的に「やる」もんじゃない。

パソコンもポインターを動かさず放っておけばスクリーンセーバーが起動します。
坐禅や瞑想は能動的な意識を「休める」のです。維持とか集中はしない。そのコツを指導してくれる指導者の下でならうとよいでしょう。
自分に何かを「させる」「する」のは坐禅や瞑想ではありません。
日常盛んな能動意識を動かさないスタンスなのです。
人間はいつの間にやら勝手に起動してしまうアプリのように、自分意識・私意識・自分自分と認める自分を中心とする意識が「立ち上がって」いるのです。
坐禅は、能動意識を一切用いないから、自己を忘ずる状態になる。
そうすると内なる思いに反応する自分アプリがオフになる。
自我意識がオフになった方体で生活をしていれば、そのことが「ただそのこと」になる。
そのことに対する突っ込みを入れなくなるから、障りが生じない。
そうすると自己の身心スクリーン上に現れる一切のものが、あなたの名前のように無常なる諸々の行(あらわれ)となる。鏡にものが映っても残り物が無いように、心に障りがなくなる。
常に自己が何もせんでも救われている状態を悟る。
やがて、物事には一切の人間の見解(思い・考え・名づけ・意味・価値)が伴わないままの本当の価値・本当の出会いを見出せるようになる。それが諸法の無我なる様子。
この自身は無我が本来性ゆえに、何もせんでも元々自由な働きをしています。
そこが分かると、自身の精神的な活動・作用に対し、取り扱う自分が機能しない=無我なので何のとらわれも引っかかりもないようになれるのです。
今のあなたは手を付けている・触っている・問題にしているのでしょう。
こうして、携帯、スマホ、PCをいじりながら周りの音、外の音、テレビの音が流れていても気にならんように、何が心に生じても邪魔にならんようになるのです。
坐禅は「やる」ものではありません。DOじゃないのです。BEでもありません。
行為を必要としないスタンスなのです。
曹洞宗ですら立場だけ偉い道心のない坊さんが只管打坐をJUST SITTNG と訳し坐禅をしっちゃかめっちゃかに指導しています。一ミリでも間違えるとえらいこっちゃな「座」禅になる。「坐」禅です。何かを習うならきちんと正しく指導してくれる指導者の下で学ばないと手ごたえはありません。
実効性がない、確かな実感を得られないものは、やっぱり「何か」が違うのではないでしょうか。

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有り難し
おきもち

質問者からのお礼

ありがとうございます、

「仏教における瞑想」問答一覧

うつ病の中でも利他の心を持つためには

5年ほど心の病に苦しんでおります。最初は適応障害という診断でしたが症状が悪化し、3年前にうつ病と診断されました。 それでも昨年から始めた漢方の治療やカウンセリング等の効果で体調は良化しており、検査の数値も改善してきています。 しかしながら「ものを考える余裕」が生まれたこともあってか、生き方に対する苦悩は深まるばかりです。 うつ病に向き合う手がかりとして、宗教・哲学・心理学など多くの本に触れているのですが、その多くで「他者に関心を持つこと」「他者と関わること」「他者のためにはたらくこと」が幸せへの道として説かれていました。仏教においても、「利他」は大切な考えだと思います。 しかし、今の私には「他者のためにはたらくこと」はおろか、「他者と関わること」も考えられません。他者とつながりを持つことを恐ろしいと感じてしまいますし、他者のことを考える余力自体も不足しているように思われます。毎日念仏をお唱えするときも、自分の身体のことや心のことばかりを考えてしまいます。 自分でも「利他の心」を持てたらとは思うのですが、負のループに入ってしまっているような気がしております。 勿論、日々の中で「他者を傷つけないように」「他者を不快にさせないように」と心がけているつもりではおりますが、それだけで良いのか、と自問自答してしまいます。 どのような心がけで日々を過ごせば良いのか、ご助言を賜りたく思います。どうぞ、よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 9
回答数回答 1

瞑想とは

ブッダは入滅する際に深い瞑想状態に入りながら入滅したと見ました。 私も肉体や精神などが極限の苦痛に達した際や死ぬ際には瞑想を使用したいとおもっておりますが、そこまで深い瞑想をするには相当な瞑想の日々の熟練が必要かと思っております。 ところが精神疾患を持つものが瞑想をするとどうやら副作用が生じ、むしろ悪影響が発生することがわかりました。 以下質問となります: この矛盾は何でしょうか?座禅・瞑想とは人類全てが実践できる安全なメンタルケアでなければならず、そのため仏教修行の多くの部分を座禅・瞑想に使用するのではないのでしょうか。 それとも仏教の座禅・瞑想は修行の一部にすぎずそれが全てではないということでしょうか。 有名なキサーゴータミーの物語では明らかに精神疾患状態にある婦人を救っているような記述がありますが、これはどのようなプロセスを経て「治して」、「さらに悟りにまで到達した」のでしょうか。 個人的に思うのはまず前提として仏道の実践と修行者の身の回りの環境を整えてから瞑想を熟練していくのだと思いますが、その「環境の充実」の基準とはどこから情報を引っ張ってくれば良いのでしょうか。 よろしければ真なるお言葉をくださいませ。なければご対応不要です。よろしくお願い致します。

有り難し有り難し 16
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マインドフルネスについて

瞑想を2週間ほど前から朝の日課にしています。欲を少しでも手放せたらと思い、始めました。 そして、昨日仕事中にふっと目の前の仕事に全意識が向いている心地よさを体験しました。これがマインドフルネス?と思いました。15分くらいしか持ちませんでしたが。 どうしても自分で自分を苦しい状態にしてしまうので、どうしたらもう少し楽に生きれるだろうと思い、このマインドフルネス状態が長く続けばいいのでは?と考えています。 そして、大人になると生活の7割くらいが仕事なので、仕事中にマインドフルネス状態が続けば毎日がもう少し楽になると考えました。 しかし、仕事内容が慣れているものであったり、どう進めるか想像つくものであればマインドフルネス状態になりやすいと思ったのですが、仕事内容によっては難問にぶつかったり、やったことないことをやらないといけないことだってあります。クリエイティブ系の職種のため、アイディア出しなどはいつも苦しいんでいます。今思うと、まだこの職種の経験も浅いこともあり、8割ほどの仕事内容にいつも苦しめられています。難問にぶつかった場合もただ難問に向き合うだけでマインドフルネスなのでしょうか。 マインドフルネスについては本などを読んで、自分なりに解釈しているところもあるので間違いがあれば訂正していただきたいです。 仕事中あっちこっち気持ちが散らかるので、マインドフルネスの実践ができたらなと思います。

有り難し有り難し 18
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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ