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限界がきたみたいです

回答数回答 1
有り難し有り難し 23

辛いことがあり心身ともに疲弊しました。
もう何も考えられません。
子供のために動けません。
仕事も手につきません。

消えてしまいたい。
誰も分かってくれない。
話を聞いてくれる人がいない。

私の今の苦労はいつか報われる日が来るのでしょうか。

ここから消えてしまいたいです。
どこかいい場所をください。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

問題の解決方向・解決方法を今までとは違う方向へ。

私も悩んでいたころはなかなかその悩みが解決しませんでした。
それは今、振り返ると解決する方法が適切ではなかったからではないかと思います。
悩みというものはそもそもどのように生じるのか。
1思いがポンと生じた。
2その思いに対して、何かこちらが「対処しようとしたりする」ことがある。
3そうすると現実問題が思い通りにならないから、かえって苦しくなる。
それって実は、心がワイドショーのようなことをやっているのかもしれません。
今現実のリアルタイムで起こっていないことを、心の中で(前から・後から=/過去の事・未来の事)問題にするということが「心の中で行為されている」ということを知る必要があります。
人間はもともとの静かで穏やかで安らかな状態があるのです。
そこが万人共通の人間の静けさというものです。
湯呑に入ったお茶、水だって手を離せば水面が平らかになるものです。
心も波立っていれば物事を冷静に見つめられなくなる。
感情的になってしまうからです。
仏教とは「外の事を」変えようとすることではありません。
自分自身が心の中で取り扱うことによって心が乱れることを冷静にみつめて、過剰な反応や自我やエゴレベルを下げて心害をなくすスタンスなのです。
まずは、その問題と自分の心とを分離させて見つめましょう。
それはそれ。あれはあれ。
あなたとは別存在、別問題、別行動。
仏教は、独立、出家、出離の精神です。
仮に自分の中で出てきた思いであっても、そこに影響される・影響されないでは人生が大きく変わるものです。問題の解決方法をちょっと変えてみませんか。
世界中にジュータンを敷くよりも、自分の足の形にジュータンをカットして二枚、三枚重ねれば世界中にジュータンを敷いたことと同じことになるのです。おまけにフカフカです。🐾👣
そういう生き方を求めるのです。
「私がこの問題に過剰に反応してしまって自分の心だけが痛くなる」ことを控える生き方。
私は問題はいつも自分の心の中でやっていることが分かりました。
「そこ」が分かれば火を消す箇所が「一ヶ所」だけであるということが分かるので、無駄にアレコレとあれも問題、あれも問題、と騒ぐ必要が無くなるのです。
あらゆる私の中の100の問題は私という一つしかない心の中の一ヶ所でしか起こっていないと念じて問題の鎮火方法を冷静に見つめてみることをお勧めします。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下覚元様
ご回答ありがとうございます。
本当にありがたいお言葉の数々で、昨日まで苦しくて苦しくて死さえ意識していましたが、少し心が軽くなりました。
問題はたくさんありますが、私の心の中の一ヶ所で起こっている事なのだということに気付けて、迷い道から元の道へ戻れそうな希望がわいてきました。助けて下さり本当にありがとうございます。

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