浄土真宗本願寺派の中院の法要について
浄土真宗本願寺派の法要についてお尋ねします。
先日父が他界し、三七日を終えたところです。この後、四七日、五七日、月忌、六七日、四十九日と続きます。
この法要についてよく聞くのが、七日毎に亡くなった人が裁かれていて49日目に浄土に行けるかどうかが決まるという話です。
しかし、浄土真宗では亡くなってすぐに阿弥陀様が迎えに来て浄土に連れてってくれると聞きました。
だとすると、49日までの七日毎の法要はどう言った意味があるのでしょうか?
また、線香や灯を絶やしてはいけないというのも、浄土へ行くまで迷わないようにと聞きましたが、浄土真宗では阿弥陀様が案内してくださるとのこと。灯や線香も絶やさずにというのは必要あるのでしょうか?
色々腑に落ちないことが多く、教えていただきたくお願い申し上げます。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
中陰は、故人さまの遺徳を偲び、阿弥陀さまのお心を聞いていく。
お父さまの ご往生。お寂しくなりますね。
謹んで哀悼の意を表します。
南無阿弥陀仏
中陰法要のことですね。
初七日、二七日、三七日とお勤めになられたのですね。七日七日を中陰と言い、七七日(四十九日)中陰が満ちるので 満中陰と言います。よく四十九日法要と言ったりしますが、正式には満中陰法要と言います。
ご本尊の阿弥陀如来、阿弥陀さまは、お浄土で待つ仏様ではなく、浄土にまで辿り着けぬ凡夫の私(人間)を救おうと、おそばまで来てくださり 「南無阿弥陀仏を称えよ、必ず救うぞ」との願いを込めて、はたらいて(喚んで)くだる仏様なのです。
ですから、中陰の期間に 私たちが供養し、満中陰にようやく、浄土に参れるかをジャッジされるような仏様ではないのです。
線香や灯を絶やしてはならない、という必要はないのです。お一人お一人が、お仏壇に向かわれるときに、その時に、お蠟燭やお線香をお供えください。
そして、中陰法要の意味ですが、
阿弥陀さまの確かなお救いがありますので、追善や 冥福を祈るためのものではなく。
深い悲しみの中で、故人さまの遺徳を偲び、亡き人が結んでくださった縁を、尊き仏縁として、「私」の「いのち」のゆくえを問うとともに、確かな拠り所となってくださる南無阿弥陀仏のお念仏の教え、阿弥陀さまのお心を、聞いていく時間としていくのですよ。この「私」の方がね。
それが、阿弥陀さまの願いの中で、亡き人が安心してくださることなのです。
きちんと満中陰の七七日まで、ご家族、有縁の方々とともに、勤めましょうね。
三月(みつき)になってはいけないのではという迷信を気にする人がいますが。
せっかく亡き人が縁を結んでくださり、尊き真実の阿弥陀さまのお心を聞く縁を、迷信により振り回されてはなりませんよ。それこそ、亡き人の縁を台無しにし、阿弥陀さまのお心を疑いかねない行為になりますからね。
きちんと満中陰まで、お念仏申して、お勤めくださいね。
私は、中陰法要の間は、たくさんのお話をお伝えしています。
あなたも、参ってくださる住職さんに、なぜですか?どんな意味ですか?とたくさんお尋ねになったらいいのですよ。阿弥陀さまのお心を お味わいさせていただきましょうね。それが仏縁を深めるのですもの。
私も、こちらから、お念仏 申しますね。
合掌
メールでも構いません。また疑問があれば聞いてくださいね。
裁かれるのは少し違うのです
くろねこさん、はじめまして。
質問を拝読しました。
くろねこさんはお父さまを亡くされたとのこと。お悔やみ申し上げます。
さて、くろねこさんは七日ごとに故人が裁かれ四十九日忌に浄土にいけるかどうかが決まると思っておられるのですね。
説き方はいろいろあると思いますが、私は七日ごとに違う仏さまと出会い旅を続けていくと伝えています。そして、故人は出会った仏さまから学びをもらうのです。
初七日は不動明王、二七日は釈迦如来、三七日は文殊菩薩(もんじゅぼさつ)、四七日は普賢菩薩(ふげんぼさつ)と続きます。詳しくは「十三仏(じゅうさんぶつ)」で検索してみてください。
くろねこさんのお父さまが仏さまとの出会いと学びで旅を続けて行かれることを祈念しております。
質問者からのお礼
ご回答頂きありがとうございました。またお気遣いありがとうございました。
葬儀屋さんや、町内の教えとかが浄土真宗の教えと食い違うようで気になってました。
やっと納得できました。
また、父が他界したのが7月31日でしたので、七七日は9月になります。三月にまたがることになるのですが、気にすることはないとわかって良かったです。
ありがとうございました。