死への恐れを軽減する義務
なぜ、仏教では宗派を問わず、誰もが持つ死への恐れを信者から取り去るためのありがたい話をせず、「死後のことは分からない」と突き放すような言い方をされるのでしょうか。比較するのもおこがましいと思われますが、キリスト教でもイスラム教でも、一応はそれなりの死後はどうなる的なお約束を説教してくれるのに。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
様々な捉え方があると思います。
お尋ねのように、死後のことについては、十王讃歎抄のような死後7日ごとに進んでいく世界を表したものがあります。また、日蓮聖人の御書の中に「三途の河にては船となり、死出の山にては大白牛車となり、冥途にては燈となり、霊山へ参る橋なり云々」と死後のことにも触れています。
決して、死後のことを語らない訳ではありませんし、私は両親の影響もあり、亡き方の霊は不滅であると信じています。ゆえに死後の世界はあると確信できます。
しかし、では、死んだらどうなるのかが曖昧であります。「死」というのは、肉体が滅びるだけのことであり、魂、意識はそのまま継続していると思いますが、少なくとも、この三次元世界では認識できないと思いますし、もっと複雑なのかシンプルなのか分かれば、ともやさんが言う、恐れを取り除く。お話ができるのでしょう。
しかし、なぜ、お釈迦様がそのことを言われなかったので、死後はないとか曖昧な答えになるのは、生まれてくる前のことが分からない、本当はみんな知っているのに忘れてしまうように、でも、忘れることで生きることに意味を見出し努力します。同じように死後のことも、知っているのに忘れている。のではないかと思います。
しかし、マスターと呼ばれた聖人達は、その仕組みを分かっている(悟っている)のでしょう。ゆえに、過去も未来も分かるので、現在も不安なく生きることが出来たのでしょう。しかし、それは人々の救済のためであって、個人の有楽の為ではないということです。
死後の世界は、多岐にわたり、地獄絵図があったり、極楽浄土の話があったりと、それもすべて、今生きている人々へのメッセージであり、しかも、それは死後の事ではなく、この世において地獄があり、そして幸せ、享楽、安穏、円満なる瞬間も体験しています。死後のことを語らなかったのは、今を努力し、精進すること、そして様々なことを認識するために人間として生きているのだ思います。
死んでから極楽へ行けますとか、地獄へ行くとか、それは誰も保証してくれません。今までに、死者が戻ってきて「あ~極楽は良かった」(昔、そんな歌ありましたが)、又、「無間地獄はこんな風でした」と聞いたことありません。あれば、とっくに死後のことは解明されています。でも、そうではないところに、又、どうしてなのかというところに、今生きる大切さがあるのだと思います。
死後の世界を説いています
拝読させて頂きました。
仏教では死後六道輪廻すると教えています。つまり死後は生まれ変わると教えています。その生まれ変わる先は生前の行いによって地獄や餓鬼や畜生や修羅や人間や天国に行くのです。
そのどこに行っても迷いや苦しみは多かれ少なかれあるのです。
その迷いや苦しみから救われていくことを目指すのが仏教の教えです。つまり迷いや苦しみから救われて離れて仏様に救われ、仏様のもとで安心して成仏することを浄土教では教えています。
私達は生きている間はなかなか迷いや我欲や怒りや憎しみから完全に離れることはできません。生前中にさとりを開いて成仏することは大変な道です。
ですからその命終わる時必ず仏様にお導き頂き、仏様の国である極楽浄土に連れて行って頂く様にと心を込めて仏様にお願いし、お念仏おとなえするのです。
南無阿弥陀仏なむあみだぶつと真心込めておとなえして仏様にお願いするものを必ず仏様は救って下さるのです。
ですから仏教は死後の世界をしっかりと説明しています。仏様や観音様やお地蔵様が全ての人を救って下さると約束しています。
恐らくこのことは様々な見解があるかと思いますのでいろいろな宗派のお坊さんに伺ってみてもいいかと思います。
どうか参考になさって下さいね。
死・中有・再生
ともやさま
仏教においても、死後におけるありようについて、詳しく述べられている論書がございますが、その中でも、日本語での訳注があり、私たちでも学ぶことができるのが、ヤンチェン・ガロ大師の「基本の三身の構造をよく明らかにする燈明」であります。
「ゲルク派版 チベット死者の書」学研文庫(平岡宏一先生訳注)
また、併せて、下記の著書もお勧めでございます。
「チベットの生と死の書」講談社文庫(ソギャル・リンポチェ著)
是非、参考として頂けましたらと存じます。
川口英俊 合掌