愛と恋は何が違うのでしょう?
一口に愛だの恋だの言いますが何がどう違うのでしょうか?
最近良くどっちの方がより相手を深く想っているのか。という話題で友人達と話をしていたのですが結論は出ませんでした。
よろしくお願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
慈悲は地球を救う
えー、まず字が違います。
、、、、、ごめんなさい。
でも、愛も恋も手に取って触れるもので無い以上、私たちの心象を言葉にしたものです。ですから、同じとか違うという以前に、違うと思った人が違う言葉、違う字にしたのだと思います。
ちなみに私は、恋は見つめ合う物、愛はお互いが同じ方向を向くものだと思っています。
仏教では愛は「求めるもの」ですから、煩悩で、苦しみの原因の一つです。バレンタインにチョコをあげたらホワイトデーにお返しをもらいたくなるものが愛です。ですから、愛は地球を救いません。もっとも私たち日本人は、愛イコール無償の愛の事、と考えている方がほとんどでしょう(ギリシャ語で言うところのアガペー)。ちなみに我々はその事を“愛”ではなく“慈悲”といいます。慈悲は見返りを求めません。ですから日本語の場合、相手を深く想うものは恋より愛、愛より慈悲ではないでしょうか。
愛はまごころ。恋はシタゴコロ。
こんにちは。
増田師もおっしゃってるように漢字が違います。
何が違うか、心の位置が違います。
愛には真ん中に心があり、恋の字は下に心があります。
そういうことで、愛はマゴコロ、恋はシタゴコロ。。。
そんなフレーズを20代の頃は使っていましたが。。。。
40代の今の心境としては、、、
心が酔いしれてるときはどっちも変わりないと思いますが、冷めたときに終わるのが恋、冷めても残るものが愛のような気がしてます。
どっちが相手を想うかというのは自分の感情。
これだけ想っているという自分の感情を押し付けるだけじゃ独りよがりになってしまいます。
相手の大事にしていることを自分の感情より大事にできるかの方が大切な気がしています。
いずれにせよ恋愛がうまくいきますようにお念じ申し上げます。
家族的であるかどうか
むかしむかし、日本では貧しい家庭では大きくなった子供がでかせぎに行くということがよくあったものじゃった。
兄弟の多かった家では長男は大きくなるにつれ「そろそろオラも弟や妹たちのためにもでかせぎにかなければ('ω')」と日に日に意を決していった。
「よし、この日に親に知られず、夜中にこっそり出ていこう」
長男は旅支度をととのえ、その日の夜中に出ていくつもりであった。
草鞋を履いていると後ろから父親も母親も起きておった。「これを持っておいき」
握り飯と旅に必要なお金を持たせて子供に手渡した。「おとう、おかぁ」(終)
噛めば噛むほど味わい深い涙がチョチョギレる話である。
子供は家の貧しさをみて、語らずとも語られずともそれを感じ取り、母親は子供の背中を観てそれを感じ取る。
現代は各部屋に鍵がかけられるほどである。障子もふすまもなかった時代。
壁が無いからこそ相手のことが我が事のようにわかるのである。
これが家族愛である。愛してるなどと言う言葉などなくともそれが伝わることが尊いではないか。( ..)シミジミ
それに対して「恋」というは相手を思い遣る気持ちこそあれど、どうしても我が事が先である。裏切られたり、期待に反すると怒りすら覚えるのである。
それでは愛に発展していない段階であると思います。
家族でも、血の繋がりあれど相手を思い遣る気持ちが無ければ「愛」が無いのです。
世間を騒がせたDNA鑑定でも血のつながりがあろうがなかろうが、相手を思い遣る気持ちがあれば愛となりましょう。
この回答は恋愛の話ではないように思われましょうが、恋の終着駅は家族になる事です。
そうでない恋など、いかに恋のラベルがそこにあろうが、ただ相手を自分の意の如くにしたいだけ、ものにしたいだけの、ただの我欲ではなかろうかのう。(._.)
恋は内的。愛は外的
はじめまして
真宗大谷派の青峻と申します。
恋は盲目と申しますように
相手も事はさておき、わたしは貴方にぞっこんですっていうのが恋です。
もうなにがなんだかわからないけれども、相手の事が気になって仕方がない状態です。
周りが見えていないのです。
対して
愛には二種類あるようです。
1つは愛して欲しい愛。
2つには愛したい愛です。
愛して欲しい愛は自分の気持ちはどうあれ、相手が自分の事を大切にしてくれないと満足感を味わえません。
貴方が愛してくれたら私も貴方を愛します。という感じです。
愛したい愛は、相手はどうあれ自分が愛する事によって満足を得る事が出来ます。
貴方が愛してくれなくても、私はあなたを愛しますというものです。
文面的には恋と似ているようですが全く違います。
ストーカー的な愛は私として只の執着心でしかなく愛とは言えません。恋でもありません。(個人的な言い切り!)
「愛は具体的な行動である」
という言葉が私は好きです。
恋は一方通行
愛は相互通行なのかもしれません。
どちらが深いか、、、愛でしょう!!!
愛とlove、恋とlove
やまおとこさん。恋は「異性を好きになること。」ですが、愛になると宗教は深い意味があります。
キリスト教は「隣人愛」に代表されるすべてのものを愛せよという意味になってきます。
仏教は愛というと四摂法にある「愛語」があり、あの直江兼続の兜「愛」もそこからとりましたと私は思いたい。
道元禅師さまがお示しになりました『正法眼蔵』には
「愛語というは、衆生を見るに、先ず慈愛の心を発(おこ)し、顧愛の言語を施すなり、慈念衆生(じねんしゅじょう)猶如(ゆうにょ)赤子(しゃくし)の懐(おも)いを貯えて言語するは愛語なり、徳あるは讃むべし、徳なきは憐れむべし、怨敵を降伏(ごうふく)し、君子を和睦ならしむること愛語を根本とするなり、面(むか)いて愛語を聞くは面を喜ばしめ、心を楽しくす、面(むか)わずして愛語を聞くは肝に銘じ魂に銘ず、愛語能く廻天の力あることを学すべきなり。」とあります。
この勝負『愛』の勝ち!!