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嫌ことばかり…

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有り難し有り難し 36

因果応報というのでしょうか?
例えば…AさんがBさんに、とてつもなく嫌なことをして謝り一つもしないで逃げ切ったとします。Bさんは、はらわた煮え返る思いもこらえ「別に、命が取られたわけじゃないし仕方がないこと」として忘れようと努力します。…けど、やはりそこは人間!多少のAさんへの嫌な思いは残って「Aさんめっ!ちょっとは嫌な目にあってしまえ!」と思って当然だし、Bさんの立場にあたる自分はやはりAさんを多少なり憎む気持ちが残ります(笑)こんなんじゃダメだなぁとも感じ、今度は自己嫌悪です(−_−;)
相手を完全に許せる方法はないのでしょうか?


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

×ばってん なことにも 〇 な面がある

仏教は悪い考えのサイクルからマリオジャンプ(解脱・げだつ)することです。
ばってん(長崎ゆえ)、何れにせよ相手を憎む、怨む、呪うとノルアドレナリンだのなんだの悪玉菌が大量に分泌されてあなたの心身を害しますけん、それこそ二次災害、二重の被害ですたい。
ばってん、ここに一つの功徳があります。あなたは相手を憎み、怨むことの愚かさをここで学ぶことができます。
彼女の件は今後、貴女が怒らないため、成長の為の一つのきっかけ、ばね、びょーん、成長の為のマリオのジャンプ台にしてください。
彼女に対して強い憎しみを持ち続ける →ムカつく →四六時中イライラ →ミス →雪でこける →「ぜんぶ、雪のせいだ(JRか)」→「イヤ、全部アイツのせいだ」 →今後誰かに怒りのエネルギーをぶつけてしまうかも →そんな愚かしい負の連鎖はするべきではない →怒りは慎むべきである →怒りをどうすればなくせるだろうか →そうだ、本屋行こう →「怒りを無くす本下さい♡」「あいよ」→読む→学ぶ→実践 →あ、怒るのってやっぱり良くないよね →やめよう 怒ったり憎むの →穏やかな人格 →笑顔 →アタシ、成長したワ。→ 親や上司からホメホメ 友達フォロワー増え増え 人からモテモテ →「突然ですが僕と付き合ってください」「え?どうしてですか?」「貴女は穏・や・か・さ・に・溢・れ・て・い・る♡」 →「きゃー♡」 →怒らないって、イ・イ・よ・ね♡ →人生捨てたもんじゃないよね →イヤな事ばかりじゃなかったっけ? →いや、そんなことない →どうして →自分のものの見方が変わったから →そうよ、物事は良く考えなくっちゃ →ばってん×長崎でも〇じゃん。→ぜんぶ、彼女のせい、イヤ彼女のおかげ、…?という視点もアリ? →そう考えたら物事にはもともと良いも悪いもない → 全て授かりだ → すべてわが師とせよって教えがある? → ってことは不幸も授かりじゃん → 「あ、そういえば和尚さんがジャンプ台にしろって…このこと?」→ すべて恵みなのだ(気づき)→ びょーん(マリオジャ~ンプ)→ めぐマリオ → めぐマリモ(完) 
という訳で、高い視点から見てください。
今は不幸に思えるかもしれませんが、それもよき因縁、よき結果の為の縁とすべし、です。(^▽^)

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

さまざまな感情があっていいと思います

相手を許す、という立場にあるうちは、多分、許すことなどは
できないものと存じます。

本当の意味で「許す」となるのは、相手に「感謝」の気持ちを
差し向けたときになります。

でも、なかなか難しいですよね(^^;)
それでいいんだと思います。
他人との間には、実に多くの感情が行きかいます。
時に愛情、時に友情、時に慕情、時に怨情、etc

でもそれらは、人間が健康であるために必要なものです。
ときにひとを憎むことも、我々が成長をする上で大切な感情です。

そんなさまざまな感情に浸っている自分を一歩引いてみたときに、

相手への見かたも、
変わってくるのではないでしょうか。

そうなると実は、許すも許さないも
感謝というところもない、ただただ、
あなたとわたし、というだけの世界に、
到る事ができるのですが、それはまた別な話です。

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おきもち

無いです。

嫌な自分が居るうちは大丈夫です。
気にする必要はありません。

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おきもち

質問者からのお礼

アドバイスありがとうございましたm(__)m

投稿したあと…進展がありまして!!先輩立会いのもと、Aさんと話し合いが行われました。
思いのたけをブチまけてスッキリしたほうがいい?とにかく冷静に話して決着をつけよう?と、Aさんに実際に会うまではモヤモヤしてました。しかし、会って書類をAさんが手にした時に気付きました…Aさんの手がかすかに震えていて書類がブルブルとなっていることに…。

あぁ、Aさんはこの状況が怖いんだろなぁ…しかし、Aさんは逃げもできるのに震えながらもこの場にいる…立場がちがって私なら震えながらもこの場にこれるかな?…来れないかもしれない!!

憎い相手ながらも「Aさん、この人すごい勇気ある人なのかも?」と。そう考えたら、思いのたけを
ブチまけるのはやめました。ちゃんと話し合いにのぞんでくれてありがとうと思えたので、それをAさんに伝えると、苦笑いがでながらもきちんと話し合いができました。

ここ数ヶ月間のモヤモヤも一切、パァ〜となれた感じです(笑)金銭のトラブルでしたので、返金どうする?とかの話しをしないと行けなかったんですが…なんか、もぅどーでもいいや!今回は勉強代とすればいいか!となりました。お坊さんたちのアドバイスがなかったら冷静でいることもできずに、Aさんの震えにも気付けなかったかもしれません。本当にありがとうございましたm(__)m

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