バチという概念について
実家が日蓮宗の寺で、私は企業で働いています。父親が僧侶で母親は寺の仕事だけしています。そんな両親に、「仏飯を食べて生きてきたんだから拝まないとバチが当たる」「寺を継がないと(私は女なので寺の奥さんにならないと)バチが当たる」と言われます。そこで思ったのですが、仏様は罪ある人でも救う存在であるはずなのにそんな簡単に罰を与えるのでしょうか。そこで多少調べてみると、日蓮宗にバチが当たるという概念が強いような印象を受けました。ただ「題目を受持し誹謗しないことが求められる」とあり、私は自ずから積極的には拝まないだけで、誹謗はしていません。それでも「拝む」という行為をしなければバチが当たるのでしょうか。寺に産まれた者は後継者のいない寺を継がなければバチが当たるのでしょうか。
そもそも仏罰という概念がいつできたものなのか、宗派などによって違うのか知りたいです。仏罰が本当にあるとしたらどのようなことが仏罰の対象に当たるのか知りたいです。宜しくお願い致します。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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先回のご質問はここでします。
先回のお礼に対してのご質問をここに書きます。
まず、罰というものは、神仏は当てません。なぜなら、私たち自身も神仏と同等の働きをし、そのものだからです。
又、自分で道を開く 平等に創造する自由が与えられているので、もし、その創造を途中で神仏と言えど、勝手に操作する(罰を当てる)ことはあり得ません。
ゆえに、罰と称して上から目線で方向を変えるようなことはないです。但し、すべては原因と結果は自然の法則ですから、自らの行い(創造)を結果として受け取ることはあります。
ゆえに、罰が当ったというのは、ある意味、都合のいい表現かもしれませんが、自業自得でありましょう。
又、唱題をするというのは、自らの向上のためであり、神仏から見れば満たされた存在ゆえ祈りが足りないからと罰を与えることもありません。
寺に生まれたものが寺を継がなければならないことはありませんし、そのような方は大勢います。ただ、一般の方よりは信仰の環境はあるということですが、それも幼い頃から、両親(お坊さん:住職)に教えられなければ全く意味がありません。又、幼い頃から厳しくお坊さんとして躾られたり、お経を読んでいても心がなければ意味がありませんし、反対にそれが嫌でお坊さんにならない人もいます。
まみさんの、先回のお礼にもありましたが、自分が嫌であれば無理やり継がなくてもいいと思います。誰のせいでもありませんから、そのことをしっかりと両親に説明してください。中途半端に期待を持たせることは、将来に対して不安であります。又、住職(お父様)が亡くなられた後は、後継の住職が選定されて住すると思います。その時は、皆さんは出ていかねばなりません。そのことも含めてご家族で考えてください。
お寺に生まれなければ、このような悩みはありません。全く関係もないことです。でも、こうして、一時的としても、又、人生のある時期に、このような悩み?を真剣に考えることも必要なことだったのかもしれません。
まみさんが、今生お寺に、今の両親の元に生まれることを創造した中の一部であったということです。