回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
うん。
それをどう捉えるのか、
単なる幻影なのか、
はたまた、
おじいさまが何らかの、
目的を持って現れたのか、
あなたはどう考えますか?
霊を見た、
霊が見える、
このこと自体に意義が
あるのではないと思います。
なぜらなら見えたというのは、
単なる現象に過ぎないからです。
初日の出を仰ぐ、
美しいな、
綺麗だなと思い
神々しさに手を合わせる。
お日様を見たのは現象で、
手を合わせて合掌したのは、
作り出した結果です。
そこに何らかの意義を
見出すかどうかは、
これはあなた自身の仕事ですよ。
お墓参りに行く、
仏壇の前で手を合わせる、
遠いところにいらっしゃるのなら、
おじいさまを想い、
静かに目をつぶってみて、
おじいさまに、
話しかけてみたらどうですか?
その時に、
思わず手を合わせるのか、
どのように振る舞うかは、
あなた次第ですよ。
おじいさまに想いを
寄せてみてくださいね。
答えはあなた自身の
中にあるはずですよ。
人生は山あり谷あり、
乗り切れますよ!
乗り切ってくださいね。
あなたなら、
乗り切れますよ。
お幸せを祈っています。
人によって受信能力の違いがあるから、有りうるかも
我々は視力聴力等の感覚器官をもっておりますが、これらの受信装置の能力には個人差があります。通常の日本人の視力はよくて2.0ですが、アフリカのサバンナに住む方々の視力は5.0ぐらいはあると聞いたことがあります。
他の人の目に見えないものが見える。他の人の耳には聞こえない声が聞こえる。有り得ることだと思います。但し、見える聞こえるといっても、本当に見える聞こえる場合もあれば、一種の思い込みのような場合もあるようです。
先日、私の寺の玄関に若い男性が来て、「自分は生霊に脅かされているので、助けて欲しい。」というのです。その男性は数か月前にに刑務所を出所したのですが、「刑務所で独居房に居た時隣の房の服役者に脅されており、殺されそうだ。」というのです。「隣の服役者の顔と名前がわかりますか?」と私は聞きましたが、答えは「わかりません。」 私「独居房だと顔を合わせる機会が無いし、名前も呼ばれない。隣の人もあなたの顔も名前をわからない。出所後の居場所を教えていないんだから、隣の人が生霊となってあなたをおいかけてくるんなんて不可能じゃないかな。」 男は納得できない様子で、男「生霊を退治してくれる人が居ないか、お寺を回って聞いているんです。」 私「残念ながら、私にはそんな能力はありません。そんな能力の人も知りません。」 この男性は多重人格かもと思いましたが、本当のところはわかりません。
唐淋钥さんの場合、感度の良い受信装置を持っているので他者の眼にはみえないものをみることが出来るのかもしれません。もしかしたら、霊の存在が見えているように感じているだけなのかもしれません。