人の命の重さは平等なのですか?
現在看護師として透析患者さんを治療するスタッフとして働いています。
2年ほど前まで産婦人科で助産師として働いていました。
前の職場では産科で助産師としてお産に関わることもあれば婦人科で看護師として婦人科系のガン患者さんを看る日もありました。
新たにこの世に誕生する命を取り上げ感動する日や、この世に生まれてくることができなかった死産の子を取り上げる悲しい場面に直面する日もあれば、若くしてガンで亡くなられ、看取りをする日など人の生と死に身近で関わることができ命の尊さを学ぶ日々でした。
しかし、今の透析の施設では自身の不摂生が原因での糖尿病、きっと透析になるまで色んな人から生活を見直すよう助言をもらっていたにもかかわらず、透析まで辿り着き、『俺のやり方が正しい、お前らは口出しをするな』というような患者さんがたくさんいます。
看護師に暴言を吐く患者やクレーマーもいます。
生活保護の方も半数ほどいます。私たちが一生懸命働いて納めている税金が、働こうとする努力もせずパチンコやタバコ、ゲームに費やし、今受けている医療や薬をもらえることが当たり前だというような態度です。
もちろん、糖尿病以外で元々腎臓が悪く透析になられた方や、とても大変な透析をしながらも一生懸命働いていて、尊敬する患者さんもいらっしゃいます。
最近は、生活保護で恵まれていることが当たり前だと思っている患者、透析をしながらも頑張って働いて生きている患者、新たに産まれてくる命、若くしてこの世を去る命、これらの命の重さは平等なんかじゃ無いと思うようになりました。
正直税金で生きるのが当たり前、自分で身銭を切らないから欲しい薬や治療を受けてもらって当たり前、看護師や医者は自分の言うことを聞いて当たり前というような患者に『税金の無駄だ。はやく死ねばいいのに』と思ってしまう私がいます。その度にこんなこと思ったら医療従事者として失格だ、人としてダメだと思うのです。
まとまりのない長い文章になってしまって申し訳ありません。
人の生、死に身近に触れる現場で働いています。人の命、生死、生き方について考えることが多いです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
人間の目と仏様の目
ご相談拝読しました。
人間が人間を見る目においては、命の不平等はあると思います。
能力や人間性や地位など、なんらかのモノサシで測れば違いがあります。それを不平等と感じるのが人間の現実です。
そしてその不平等は人間の課題ですから人間が対処する問題です。
医療、社会制度、教育、政治などによって…様々な不平等を現実的に対処して超えていこうとするのが世俗の考え方です。
仏教が人間を見る目は人間・世俗を超えたものです。仏様の目から見ればどんな命も平等です。
何において平等かと言うと、「縁において生まれ・縁において生き、縁によって死んでいく」という法則においてです。
しかしその縁は各人バラバラです。でもその違いを「これは良い・これは悪い」とモノサシで測るのは仏様でなく人間の考えなのです。
生まれながらに自らの意志のみでクレーマーやギャンブル依存症や貧困になろうと思う人がいるでしょうか?それは自分の自由意志で選択したものでしょうか?
そうではありません。縁の中でそのような自分として形成されたのでしょう。
これは運命論ではありません。各人の現状に各人の責任が全くないという話ではないのです。
しかし、仏様の目からみるならば私たちは縁にふり回される弱き存在です。縁がととのえばどんなことだってしでかします。人間性が優れているとか、性格が穏やかだとか、生活が安定しているとか、そんなものは一たび過酷な縁が降りかかればどうとでも吹き飛んでしまうものです。
つまり、もしかしたらいつあなたがあなたの軽蔑する側に変わるか分からないということです。
だからといって私たちが全てを平等に見れる仏様の目を手に入れることができるわけではありません。
あなたが正直に書いてくれたように、誰にだって差別心は生じるのです。
そんな自分の心をどうにかしてキレイにしようとすることが仏教の救いではありません。救いの根拠は自分の中でなく外から与えられるのです。それが仏様の教えです。
教えに促し続けられ、本当は平等な命を差別する自分の現実を知らされるならば、人間社会の格差は自分たちの課題として引き受けていこうとする勇気がもらえるのが仏教の救いです。
自分がどうにかなるのでなく、どうにもならない自分を外から包んでくれる真実との出会いが仏教なのです。
様々な世界をみてください。
日々の看護お疲れ様です。
私も昨年、悪性リンパ腫で1ヶ月弱、入院して抗がん治療を受け、その後通院で5ヶ月間お世話になっておりました。もちろん今も通院はしています。
その間、医師や病院スタッフの皆さん、特に看護師さんにはとてもお世話になり感謝しています。24時間にわたり懸命に看護される姿には、とても自分にはできないと感謝しかありません。毎日、たくさんの「ありがとう」を言わせて頂きました。
さて、はるなるなさんも医療現場で直接患者と関り大変なことだと思います。
特に、今回のお話は現実問題として様々な面から考えさせられますね。同じ医療現場でありながら患者の思いが全く違うので、このような疑問も湧いてくるのも仕方ありません。
少し角度を変えて考えてみましょう。
一つには、医師は、人間が死ぬこと、死なせてしまうことは失敗という考え方でいいでしょうか。私は以前そのように聞きました。
もし、そうなら何が何でも生かさなければなりません。当然、医療現場でも同じかもしれません。私への対応も、そのようにされたと思います。ゆえにこうして生かさせて頂いています。
もう一方、私の考え方は、こうして人間として誕生し、様々な理由はあれど人生を歩んでいます。やがていつかは死を迎えます。その原因が、老衰であれ事故であれ病気であれ災害であれ、肉体は限界を迎え肉体の変化(死)を迎えます。
しかし、魂、意識は滅ぶことなく続いている、これは目に見えませんから証明の仕様がありませんが、医療現場ではそれとなく不思議なことはあるかもしれませんね。
ということは、死は単なる肉体の変化に過ぎない(もちろん大切な人が亡くなれば悲しいですし、辛いです)ということであれば、次があるので、何が何でも肉体を滅ぼさないようにとはならないでしょう。延命治療を受ける受けないも当然なことで、私は、もしも時その選択をしています。
そして今回、はるなるなさんが、様々な医療現場で体験していることにも意味があるのだと思います。その理不尽な矛盾した世界を体験することで改めて知ることも学ぶこともあるということではないでしょうか。
誰の考え方が正しいとか間違っているということではなく、すべてに意味があることだということです。
現代では大切な尊き他人の臓器を頂けます。ならばその余生は人を活かし、生かされる人生を歩みたいものです。
殺意は自然な感情。でも慈悲を目指す。
動物の中で「人間」というカテゴリ-を分けて考えるのは、私達が頭の中で決めた仮の概念です。
だから、人間も人間以外も、動物は個体ごとに特徴が違い個性があるし、また、人間も人間以外も「生きたい」のは同じだと思います。
つまり、ゴキブリや蚊を叩くのも、人間を殺すのも、罪の重さは大差ないのです。
(国の法律では人間だけを差別していますが。)
私達は、自分の利害関係や好き嫌いを理由に、邪魔な相手は殺しているのです。
ペットは可愛がり、ゴキブリは殺す、身勝手な私達です。
ですから、あなたが心の中で怒りや殺意を抱くことは、自然な感情だと思います。
ただし、怒りや憎しみはストレスやトラブルの原因になりますから、慈悲の心を育てた方が自分も他の生きものも平安になります。
怒りは誰にでもあると自覚した上で、慈悲を目指しましょう。
平等に尊いですよね。
拝読させて頂きました。
あなたがおっしゃるような傲慢にわがままいい放題な方々の姿を見るとあなたでなくてもそう思ってしまうのは否めないと思います。
そのような自分の我欲を通し感謝することのできない方々はやはり心がかたよってしまっているのではないでしょうか、ものごとを受け入れられずに憂さ晴らししてその業が自分に戻ってきて自分の心も体も犯してしまっている方もいらっしゃるかもしれません。それは心も病いにむしばまれているのかもしれません。
そうではなくて体質的に病いになっている方々もいらっしゃると思います。
仏様や神様にとっては全てのものは平等に尊いものですから、その方々も尊い存在です。
いずれその方々も必ず自分の天寿を全うする時がきます。その時にはお迎え現象があり、仏様や神様やあまたの方々がお迎えに来て下さいます。
その時その方々は自分の人生を振り返ってみてどう思うことでしょう、心も体も病いにむしばまれている自分の姿をどうご覧になるでしょうか、この世に生を受けてあまたの恵みを受けて生きたことをそして自分が思ったことやなさってきたことを走馬灯のように振り返ってどう思うでしょうか。
それは仏様や神様やご先祖様方々しかわかりません。
お仕事大変かとは思いますけど合間にちょっと想像なさってみてはいかがでしょう。
全てのものは平等でそれぞれ恵まれて尊いものです。
それは真理であり真実であり法です。
ゆっくりと見つめ直してみて下さいね。
どうぞお仕事大変かとは思いますがあなた自身も大切になさり周りの方々も大切になさりながら適度に頑張って下さいね。
あなたがあまたのものを大切になさりながら皆さんと一緒にお互いを思いやり尊重しあいながら充実して毎日を生き抜いていかれますように切に神仏にお祈りさせて頂きます。
質問者からのお礼
僧侶の皆様、日々お忙しい中ご回答頂きありがとうございました。
お礼が遅くなってしまいましたこと、御容赦下さいませ。
私自身、普段宗教にあまり関わることが無い身でしたので、ご助言くださったような心持ちや視点が私の中には今までありませんでした。
なにかがパッと開けたような気がするのですが、お一人お一人のご助言の本当の本質を私自身の中に沁み渡らせるには少し時間がかかるような気がします。
私自身がまだまだ人生経験が浅く、未熟であるということもあると思います。。。
通勤中、仕事の休憩中、寝る前のホッとした時など合間合間に何度も読み返しております。その度に皆様のお言葉の意味を考えています。
でも、皆様のご助言のおかげで明日からも仕事を頑張れそうです。
私の中にある殺意や差別心といった感情を否定せずまず認めていくこと。
親身になって聴いて下さりありがとうございました。
仕事柄、死生観や倫理観など考えさせられることが多々あります。
これからも悩むことや気になることを皆様に
質問させて頂いてもよろしいでしょうか?