ただひたすら生きているのがつらいです。
一人娘を自死でなくして、何度かここでお世話になった者です。
昨日が4回目の月命日でした。
どうにか毎日を這うように生きてきましたが二週間ほど前からどうにも心身の状態がどうにもならなくなり、先日心療内科を初めて受診しました。
うつと診断されました。
そう言われるとは思っていたのです。
よく眠れない、食べられない、外へ出たくない。体重の減少。ずっとぼんやりして泣いてばかりいる。生きていてもしょうがないと思う。
自死で子どもをなくして平気で生きられる人なんていないと思います。
つらくてつらくて受診してしまったけれども抗うつ剤を飲むことにすごく抵抗感があります。
娘が心の病気で色々な病院にかかり入院もし様々な投薬をうけても少しもよくならないばかりか最後は自ら死を選んだことで、精神科の治療費に不信感が拭えないからです。
それでもこの底無し沼に引き摺り込まれるような絶望感と体を切り刻まれるような痛みから少しでも楽になりたい。
少量から薬をはじめたのでまだなんの効果も現れません。
この苦しみから助けてくれるのは薬しかないのか。
このままでは娘と同じ道を辿るのではないかと思ってしまいます。
ごめんなさい。
この気持ちを誰かに聞いてほしくて
投稿しました。
一人娘を亡くして闇の中にいます。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
苦からの救いとは
お気持ちお聞かせいただきました。娘様のご命終に謹んでお悔やみ申し上げます。
南無阿弥陀仏
さぞお辛いことと思います。お察しするに余りあります。
仏教は「苦」からの救いを説き、そして実現する教えですが、それはどういうものでしょうか。
具体的に言えば、今あなたがあなたの苦しみから救われるとはどういうことでしょうか?
はたしてその苦しみは憎み嫌い排除すべきものなのでしょうか。仏教の救いとは苦しみを消し去ることでもなく、そのままでよいということでもない。はたまたもう苦しみが起こらなくなるのでもないのです。
苦を苦として引き受けていける。苦を憎み嫌う心がひるがえるということです。
それほど大切な存在を亡くされたのです。その苦しみは当然にして起こるべきものなのではないでしょうか?その苦しみが娘様との関係の深さです。
そして今は、その苦しみをとおして娘様を感じ、姿形を超えた存在になった娘様に出遇っているのではないでしょうか?
これはあなたの苦しみは我慢できる程度のものだと軽く見るということではありません。苦しいものは苦しい。だから楽になりたいのは致し方ないことと思います。
しかしよくよく考えてみればその苦しみとは一体何なのか。自分で起こしたものなのか。なくすことができるのか。
雨が降る原因があれば降る。雪が降る原因が有れば降る。そのように苦しい気持ちになる原因があれば苦しくなるのです。
その苦しみはあなたを苦しめようと起こってきたものではないのです。娘様のご命終から生じたものです。ただそこにあるべくしてあるもの。また縁が変われば苦しみの姿も変わっていく。
この四か月。ご自身で気づかなくとも何も変わっていないことはないはずなのです。四か月前の苦しみと、2か月前のと、先週のと、昨日のと今日のは違う。その時その時に起こる原因がととのって起こったものです。
投薬・治療方法・治療費については専門ではないのでわかりませんが、その不審を正直にお医者様に伝えてもいいのではないかと思います。その受け止め方でまた医療機関の変更も検討できるかもしれません。
思いっきり泣いてもいい。一日中寝ていてもいい。仏様に手を合わせ、娘様を案じる中で、その苦しみはあなたがいただいた苦しみであると憎み嫌わず抱きしめるように引き受けてみてほしいということです。
質問者からのお礼
吉武さま御回答ありがとうございました。
苦を苦として受け入れていける。
苦を憎み嫌う心がひるがえる。
その言葉がすごくしっくりときました。
毎日御回答を読み返しています。
この苦しみはきえることはない。
きえるものでもない。
でもいつか違う質のものにかわるかもしれません。
ハスノハへ何度も相談して
頂いた回答や教えにその時は納得し慰められるのですが、また時間がたつと元の場所へ戻ってしまう、という堂々巡りの四ヶ月でした。
苦しみから逃れたい、そのことばかり考えてきたからだと思います。
この苦しみを受け入れてはじめて娘と向き合えるのだ、そう感じました。
また元の場所へ戻ってしまうかもしれません。その時はまたご教示頂きたいと思います。