生きる意味についてもう考えたくありません
生きる意味について考えることに疲れました。
どうすれば、こんなことを考えないでいられるのでしょうか?
生きることに意味なんてない。
もしくは、それは死ぬ間際に人生を振り返って知ることであって、今分かるようなことではない。
そんなことは分かっています。理解しているんです。
論理的に「生きる意味」を見つけることは不可能です。それができたら、世の哲学者なりがとっくに結論を出しています。
なのに、「生きる意味」「物事の意味」について考えることをやめられません。
何をしていても、「こんなことに意味はない」「どうせ人類滅びれば何をやっていても同じ」というような諦念が頭をよぎり、心の底から楽しむことができません。
二十年と少し、今までの生きてきた中で色々なことをしてきました。
勉強をしたり、友人と遊んだり、趣味に邁進したり、進路に悩んだり。
そういったことをしている間中、ずっと頭の片隅に「こんなことに意味があるのか?」という疑問がつきまとって離れませんでした。
何をしていても、どうせ何にもならないという無力感が肩に腰を下ろしているんです。それが、少しずつ私を蝕んでいるんです。小中学生辺りから、ずっと。
そんな積もり積もった負荷が、就活をきっかけに爆発してしまいました。
どんな将来を思い描いても、「そんなことをしてもどうせ意味なんてない」「人類滅びればみな一緒だ」などという言葉が頭を揺らすんです。
そしてすぐに、「何のために生きているんだろう」「どうせ意味なんてないのに」というようなことを考えてしまいます。
そんなことに、もう疲れてしまいました。
最近、よく死にたいと考えてしまいます。もう悩み続けていたくない、と。
散歩中に苔むした石灯籠を見かけ、羨ましいと思ってしまいました。
心療内科にも行きましたが、訳もなく涙が出ることを抑えることもできず。
筋トレなども始めてみましたが、鬱々とした日は簡単な運動にすら手が着きません。
近頃では、ギャグマンガを読んでいても空しさで吐きそうになってくるほどです。
どうすれば、こんなどうでもいいことを考えないでいられるのでしょうか?
坐禅や瞑想を取り入れてみるといいのでしょうか? 身体が硬くて長時間座れませんが……。
もう、考えるのに疲れました。
何も考えず、もっと能天気に生きたいです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
枠にはまらずに、とらわれず、あなたらしく。
初めまして、今晩は。
生きる意味などに執着せずに・・過去でもない、訪れていない未来を考えるから不安や心配になります。未来でもない、二度とないこの瞬間という今をあなたらしく過ごす事を考えて見てはどうでしょうか?
私も、妻を病気で看取ってから震災で付き合い始めた彼女を失い、祖母や追うように父を看取り、長男に重い障がいが見つかり・・どん底に落ちて、これでもか、これでもか・・と嫌になるほどの困難に追い込まれ自ら命を絶とうと実行をし、蘇生されました。結果・・より苦しみました。その後も、これでもか!と苦しい困難な中、濃い霧の中に放り込まれ・・出口も方向も、自分自身も見失ってしまった時期がありました。
周りがこうだから・・と焦ったり、枠にはまったり、作り笑顔をして二度とない日々を坦々と過ごすよりも、思考を変え折角頂いたこの人生と言う冒険旅行を、あなたらしく堂々と過ごして見ませんか?
思考を変えると・・見えていた世界が違って見えて来ます。あなたはまだ、若く人生というストーリーを歩み出したばかり。結果や答えをすぐに求めずに、宿命という生まれた日や時間は変えれませんが、人生や運命そして自分自身はいくらでも変えられリスタート出来るのです。仕合せも、人生を描き演じるのもあなたなのです。
私たちの身体には、様々な繋がりがあります。何百年と続く先人、ご先祖様や父母の願いや想いが込められています。比較的に恵まれた国に生まれ、住む家や、暖かいご飯が食べられることは当たり前ではありません。人は、病気や大切な人を失って・・明日が訪れる事や、居て当たり前だという事など色々な気づきを与えられ有難さを実感するのです。あなたは気づきを与えて頂いたのです。頑張ろうとしたり無理に答えを求めるよりも、違う事に眼と心を向けて見ませんか?
私は今、時空を超えて・・過去に答えを求めていた事が現れて来ました。いつか、答えは訪れます。無駄な命はありません。誰かがあなたを必要としていて、あなたも誰かを必要として今を生きているのです。
人生の物差しからすれば立ち止まっても僅か数ミリです。苦しい時などはジタバタせずに嵐が過ぎ去るのをジッと立ち止まって・・そして歩み出せばいいのです。
執着を捨て、あなたにはあなたの良さがあります。あなたらしく人生と言う長い冒険旅行を仕合せに歩めますように。
合掌
考えずにおれない問いをごまかさないで
生きる意味…とても大切な問いです。もうその問いに捕まってしまったのに、考えたくないからと目をそむけてもそれはごまかしにしかならないでしょう。
その問いがずっとあなたの底で疼き、そしてそれでいいのか?と促し続けるからです。
それなのに、私にはあなたがその問いを問いとして引き受けるのでなく、もう答えを出してしまっているのではないかとお見受けします。
「生きる意味はない」という答えを頭の中で導き出して正解とし、それなのにその考えの上での正解に矛盾して意味を求めて苦しむ自分の事実の方をごまかそうとして、最終的に死に逃げたくなってしまうのではないでしょうか。
おっしゃるとおりこの問いに答えなどないでしょう。しかし答えなどないものを問い続けてきた歴史がある。今もなお問い続けている同志がいる。ここhasunohaでも沢山の問答が有りました。参考にいくつか貼っておきます。
是非ともひとつひとつじっくり読んでみてください。
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https://hasunoha.jp/questions/40929
https://hasunoha.jp/questions/16052
https://hasunoha.jp/questions/19384
https://hasunoha.jp/questions/27947
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さて、言ってしまえばあなたは、いや誰もが、本当は「死」で終わらないものを求めているのではないでしょうか?
どうせ死ぬのになぜ生きるのか?死ぬのなら頑張ったって意味ないじゃないか?
そういう問いを見て見ぬふりをして生きていくのではないでしょうか。でもあなたはごまかせないのでしょう。
ならば正々堂々と真正面からこの問いを引き受けましょう。「死」で終わらないものとは永遠の命が手に入ることではない。今この迷い苦しみの命をいくら延長したところで真の満足にはならないし、人生を何度やりなおしできたとしてもいたずらに迷いを繰り返すだけである。
「死」では終わらないものとはそういうものではない。
浄土真宗ではそれを「南無阿弥陀仏」のお念仏としていただきます。
…わけがわからないでしょう?
でも道を求めて救われてきた人がいるのは事実です。あなたはあなたの道を。
質問者からのお礼
確かに、少し焦りすぎていたのかもしれません……。
昔、もっと気楽に生きていた頃のことを思い出しました。あの頃の私は、自分に起こる全ての出来事は、いずれ自分にとって意味を持って返ってくる、と信じていた気がします。
染みついた思考はなかなか消えないと思いますが、少し立ち止まって色々思い返してみようと思います。
少し、気分が晴れた気がします。ありがとうございました。