人生の目的
“いまは自分には、幸福も不幸もありません。ただ、一さいは過ぎて行きます。”
太宰治の人間失格の行です。
太宰治と言えば、ネガティブなイメージで捉えられるケースが多く、この行も自死を決断した際の言葉だとも言われています。
でも、僕にはこれが『悟りの境地』なのではないかと思えてしまいます。
最近、『死』を意識するようになりました。
決して自死願望などではなく、自分の人生が良かったか悪かったかを判断するのは、死の瞬間に走馬灯のように自分を振り返る時に、自分自身で判断するものだと思うようになったのです。
だから、今を精一杯生きようと...
ただ、それが空回りしたのか、ベクトルを間違えたのか、自分の理想ばかりが鮮明になってしまい、現実が非常につまらないもの・美しくないものに見えてしまい、虚無感に苛まれておりました。
先般の質問に対してご回答を賜り、理想と現実のギャップについて学びを得させていただきました。
ありのままにすべてを受け入れることは、簡単なことではありませんし、それを理想にしてしまえば、また堂々巡りのように自分中心の思考に嵌まってしまう...
ここで、改めて質問をさせて下さい。
輪廻転生がないものだと仮定すれば、人は生まれてきて死ぬまでに、どんな意味を持つのでしょうか?
煩悩を捨て、ニュートラルな思考で生きることが最善であるならば、そこには何の喜びがあるのでしょうか?
輪廻転生があるのだとすれば話は別だと思いますが、それを記憶出来ない以上は、敢えて現世の人生の中での部分に絞ってお伺い致します。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
人生色々~欲望の彩を添えて
「ありのまま」は理想ではなく現実です。現にそうして「ある」という事実。私が受け入れるかどうか関係なくすでにしてそう「ある」。
私はありのままに「なる」のではなく、ありのままの私であったことに「気づく」「目覚める」。しかし私は私の「思い」や「理想」というフィルターを通してでしか私を見れないので、私以外の所からそれを教えていただかないとならない。それが法(教え)というものでしょう。
「煩悩を捨て、ニュートラルな思考で生きる」とはどういうイメージかはわかりませんが無心・無欲な印象でしょうか。しかし、欲望は人生を楽しくもします。
美味しいもの食べたい。外国に旅行したい。愛する人と暮らしたい。
「~したい」という欲は人生に彩を添えます。しかし我々が勘違いしてしまう所は、「こうあるべき」「こうなるはず」という私の「思い」でそれをとらえてしまうこと。
なのでそうならないという現実の前に「なぜ?」「こんなはずじゃ」「どうして私だけ」と「思い」と「事実」の差に沈んでいきます。
ならばすべきことは思いをなくすことではなく、事実を知ることではないでしょうか。今こうしてある現実が私の力ではなく、様々なご縁により成り得ているという事実。で、あるならば「こうなるはず」という私の思いは思いでしかなく、事実としては「どうにでもなる」「どうとでもなる」。
「想定外」なんて言葉がありますが、そもそも想定できるものなど何もなかったということ。そうした中で私の「~したい」が実現されていくことへの喜びがある。そして実現しないことについては悲しみではなく「どうにでもなる」という事実の前にただそうあるのみ。
「こうなるはずが…なんでこんなことに」ではなく、「まあ、こんなことにもなりますわな。むしろこの程度で済んでいただきましたか」という感じ。
我々の人生は意味があってこうあるのではなく。こうあることに私が意味を感得する。宇宙が生まれて太陽系が出来て地球ができて生命が誕生して人類が生まれて…すったもんだして…という数限りない因(直接的原因)と縁(間接的原因=条件・環境・対象など)のもとに私が「たまたま」今こうあるという事実。意味があるからではなく、様々な因と縁でこう成り立っている存在が私です。
私はそこから自由に意味を思い、それでいてしっかりと事実という大地の上を歩む。それが人生ではないでしょうか。
私の考えですが、生まれる意味、生きる意味は何もないように思います。ただ生まれただけ、命を全うし、死んでいく生き物でしかないのでしょうか。
しかし、それが不幸でもないことだと思いますよ。お釈迦さまや道元禅師もそのようなところに疑問を持ったのでしょう。だからこそ、まずは自分自身を知ることをやったのですね。
自分とは、生きるとは、ということの答えが今、ここ、自分自身の目の前にあることを知って、解脱されたのですね。何にもしなくても救われている。人間らしい取り扱いをしないことに救いがある。
救われていることに気づくと、虚しいなんてことはないのでしょう。自分なんてものはない。満ち足りた世界の中で日々変化しながら、ただ生きている。そこに安心があるのです。
根っこから見直す
太宰治のその言葉、たしかに悟りの境地というか、悟りの一側面を言葉にしたものだと思います。
「堂々廻りで、また自分の思考中心に…」とありますが、まさにこれ輪廻のことだと思います。「流転輪廻」ともいいますね。
自分の思考の「枠」から出れないと堂々廻りですよね?答えがでない。出たとしてもそれは自分が考えて出したものであって、本当かどうかわからない。作り物の答でしかない。
人間て産まれてすぐ「名前」をあたえられて、そこで一つ目の「枠」ができるんですよね。レッテルといってもいいかもしれませんが。それから、性別とか性格とか出身校とか職業とか家族とか…いろいろ増やして生きていきますが、これは「私作り」みたいなものですよね。「私」っていうものを固めていく作業。「私ってこういう存在だ」って思い込む…。
これを仏教では「無明」というんじゃないでしょうか。明かでない。分かっていない。
仏教では無我です。私ってないんです。固定された私なんてない。わたしですら過ぎ去っていく存在です。
この私という思い込みの枠からでて、精神的に「なにものでもない者」として生きることを悟りとか解脱とかいうのだと思います。
幸、不幸も結局二元的な世界です。私がいるから分けたがる。分かりたがる。
「私」という固定された思い込みを一度壊して、あらためて「わたし」を生きる。とても広々として清々しいと思いますよ。
これ全て受け売りですm(__)m
幸福も不幸も空にして縁起なるもの
くまお様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
“いまは自分には、幸福も不幸もありません。ただ、一さいは過ぎて行きます。”
無常を示す内容であるのは確かでしょうが、ただ「悟りの境地」であるのかと言われますと、やや問題があるように思います。
気を付けなければいけないのは、安易な不二や無分別は、ただの虚無主義や悲観主義、冷笑主義に陥ってしまい、何ら益とならないことになりかねません。
「私はあなただ、あなたは私だ」といって、相手に対して何しても許されることは現実ないでしょう。
仏教的に説明するとすれば、「幸福も不幸も実体としてはあり得ていません。空です。しかし、原因や条件など他に依存することによって、つまり、縁起としては成り立っているものです。」となります。
ですから、幸福も不幸も実体として「有る」わけではないけれども、かといって「無い」わけでもないということになります。
輪廻する主体は、非常に微細な意識(心)の連続体、心相続となります。それだけに、我々の粗い肉体や粗い意識では、無明という無知も相まってなかなか知れることも難しいものがありますが、しっかり仏教を修習していくことによって、より善い赴きへと向かっていくための因縁(原因と条件)に努めて、心相続をより善いものとして参りたいものとなります。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
多くのご回答ありがとうございました。
またお礼のコメントが遅くなってしまい、大変申し訳ございませんでした。
本来ならば、それぞれのご回答に対してコメントを書かせていただきたいのですが、ここ数日心身ともに不調で、コメントが思い浮かびません。
大変失礼とは重々承知しておりますが、気持ちが戻るまでお許し下さい。