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相手の言葉を素直に受け取れません

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職場の友達や義理両親と話をしていると相手の言葉を素直に受け取れず、表面上は仲良くしているだけで本当は全て社交辞令なんじゃないか、本当は私のこと嫌いなんじゃないかと考えてしまいます。
例えば、職場の友達に今度ごはん行こう!と言われても、きっと社交辞令なんだろうなと思ってしまって、その場では行こう!と返事しますが結局私からは怖くて声がかけられず実現しないことが多いです。
義理両親はとても優しく、困った時などに頼ると娘なんだから遠慮しなくていいよと言われますが、内心は迷惑だと思われてるんだろうなと考えてしまい、なかなか距離が縮まりません。
本当はもっと仲良くしたいと思うのですが、いつもネガティブに捉えてしまって、結局私の方から距離を取ってしまいます。

私の心が歪んでいるからそんな風に捉えてしまうんでしょうか…
この考え方を変える方法はありますか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

心は歪んでいませんよ

人を疑うようになった原因がご自分の中で分かってたりしますか?
いきなり難しい質問をしてすみません。
お釈迦様のコトバで「苦や悩みの原因は自分の中にしかない」というコトバがあります。なので自分がそのようになってしまった原因をまず見つめ直してみてはいかがでしょう?
そしてその原因を否定や自己嫌悪ではなく時間がかかっても良いので少しずつ受け止めてあげて下さい。
また、人を信じて裏切られた時のショックが怖いという感情は誰にでもあるので心が歪んでいるとは思いません。むしろ純粋な方なんだなと思います。

ただ、「因果応報」というコトバのとおり相手を疑ってみていると相手も自分のことを疑ってみるようになってしまいますよ。社会生活の中ではもちろん社交辞令も大事ですが、ご自分が社交辞令を多用しているのが原因かもしれませんね。素直に発言するというのも同じくらい怖いと思いますが、素直に発言しても残る相手が本当にご縁のある相手だと思います。まずは難しく考えず相手のコトバをスッと受け止めてみて下さい。そしたら相手もきっと素直にあなたの発言を受け止めてくれてるはずです。素直になんでも言い合える関係って少しの勇気で作られるかもしれませんね。

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初めまして。 私は山梨県の信楽寺というお寺の住職をしております清水雅典と...
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素直になるためには 素直に「なろう」としなくていいです。

素直とは「素直になろう」とする1秒前の自己。
人間の思考で手入れ・テコ入れする前の心身のダイレクト感受のまま状態です。
多くの人は素直というと「素直になろう」とします。
それが為に素直から遠のきます。そこに「要らぬ行い」が生じて身心にとって不自然アプリが起動してしまうのからです。
素直をDOしようとすれば素直のBEでいられない。自然と人為は真逆だからです。
この身に何かを足したり引かなければも元々の状態が素直です。
それは坐禅も同じ。自我の手入れ、テコ入れ前の状態が坐禅だからです。
はじめの一歩目を思考へ進めると素直になれません。
人間の「自分・わたくし意識」を起動させる前の元々の様子を素直というのです。
素直とは「素直になろう 素直を作ろう」とメイクするものではなく誰しもの、元来の本源が素直なのです。
「柔和質直なる者は皆 即、仏の身を見る。」《法華経》
人間元来の無為の待ち受け画面、待機画面です。と呼んでいます。
今、ここの瞬間に備えている最上最高の待ち受け、
今、見ているもの、聞いているものを眺めてみてください。
それは「あなた以前」です。
映っている時は見ていない。見える、の状態。
響いている時は聞いていない、聞こえる、の状態。
それが人間の本源。
ここを仮にワタクシ・アプリOFFと名づけましょう。
ワタクシ・アプリが起動していなくても、この身心は、五感で出来事を感受しています。
人はワタクシが働いていなくても、それをその通りにこの身に❝透映❞しているのです。
如来とは、全ての物事がこの五感に来たるが如く去るが如くに映し出されていること。
presentとは現在。神(無私なるもの=法)からの贈り物ゆえに、いつでもこの五感に透影されている現象。
ところが人は時として、神や仏から見放され、楽園や涅槃から追放される。
そのままでいることが素直、悟りに他ならないのに、そこに人為のテコ入れをする。
何も足し引きなしでいいのに、知恵の実(思考🍏)をかじって、テコ入れをして智慧の実(事実🍎)を見失っているのです。
目前の事実との出会い頭はいつでも素直であり、悟りの様子なのです。それを確かめるのに坐禅・瞑想・念仏は有効です。
だから素直になろうとしないでください。
思考・分別のテコ入れをする前の自己は事実に対していつでも素直です。本当の素直さに目覚めるでしょう。

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おきもち

質問者からのお礼

お礼が遅くなってしまい申し訳ありません。
ご回答いただいて考えさせられることがたくさんありました。
確かに、私は相手に嫌われたくないという思いから社交辞令ばかり言っていました。
こんな風になった原因ははっきりとは分からないのですが、振り返ってみると昔はもっと素直に相手の言葉を受け止めていたなと思い出しました。原因についてはもう少し考えてみようと思います。
「素直に発言しても残る相手が本当にご縁のある相手」という言葉、とても心に響きました。
今までは誰からも嫌われないようにと振舞ってきたから、本当の友達と呼べる相手が殆んどいないのだと気づきました。でもそんな関係の友達だったらいないのも一緒ですよね。
本当にご縁のある相手を大切にできるように、素直に受け止め素直に発言する、勇気を持ってみようと思いました!
ありがとうございました。

「コミュニケーションの悩み」問答一覧

伝えるのが真心か、伝えないのが賢さか

怪我をしてしまい、治療院へ約2ヶ月ほど前からお世話になりました。 その院は門前の仲見世通りにあり、初夏に新しくできたばかりでした。 怪我した当初は、適切な処置で仕事を休むことなく大変良かったのですが… 一向に治療が終わる気配もなく、次、また次の予約で、施術や接遇マナーについても少々気になる点はありました。 例えば、相手に接している間に業務連絡や他の患者さんの所へ行くなど、その場を離れる時は必ず手を離す前にひと声かける、一連の動作の中で、なでる、トントンとたたくなど、患者の心身の緊張を緩めるための手の置き方があるのですが、元々痛めた部分を拳で普通に叩いて響いたり、単純に重くのしかかるだけの雑に感じられる置き方、などの違和感です。 治療学を学びに学会へ参加したり、手技を生業としていた自分の中で経験者として備わった常識との隔たりに、日に日に不信が膨らみました。 ある日、施術中に「今度、ハロウィンの仮装をするんです」と他の患者さんへ話す声が耳に入りました。 怪我直後は応急処置に助けられた反面、ずっと長々通ううちに質が薄れていき、施術や接遇マナーに疑問が生じていた矢先でしたので ハロウィンの仮装をした治療家に、お預けするのは気が進まず、理由は伏せて「卒業」を告げてきました。 大変残念そうな感じでしたが、寺院や大きな神社のある門前町の仲見世に院を構え「地域の人々に貢献する」という建前と、施術の質が伴わないこと、治療行為と仮装(仕事と遊びをごちゃまぜにする)が受け入れ難かったこと 真心が手から伝わらなかったこと それらを伝えずに去ったこと、それで良かったのか、時々心に浮かびます。 年代は20代前半の方ばかりで、患者さんを集める能力や、予約に繋げるノウハウがあることはわかります。 ただ、肝心の施術の質が…(あくまで私の感覚ですが) 繁忙してくると何か大切なものを忘れてしまう…、応答もマニュアルがあることが察せられますし、一生懸命なのはわかりますが 驕れる者は久しからずに思えてなりません。 (クリスマスケーキを売るために、商売人がサンタの格好をするのはわかるのです) プロフィールにも書いた通り、志もあるので、今回のことは学びに繋げたいと思います。 下手にクレーマーになるよりは、それで賢明な選択だった、大人になった、そうけじめをつけたいです。

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師弟関係でいつも同じような壁にぶち当たる

お世話になっております。 自分自身と習い事の先生との関係が昔から同じパターンを繰り返しており、少し苦しくなってきたので相談させていただきます。 私は4月から大学で教えるようになり、自分の未熟さ、ダメさを思い知らされると同時に、先生といえども完璧な人などいないし、皆、弱さを隠して生きてるんだな、だから誰に対しても完璧を求めるのはやめよう、と思えるようになりました。 私自身は、これまでピアノの個人レッスンで、芸術的には尊敬できるけどすごく癖の強い、モラハラとも言える先生に師事したことがあり、そのモラハラが嫌になってやめてしまったことがあります。ピアノそのものの技術的なことをほとんど教えてもらえず、人生教訓的な話や、愚痴や、私に対する否定発言が増え、辛くなってしまったからです。 そして今は、ピアノではないのですが、あるスクールに生徒として通ってます。その先生が、普段はすごく優しくてピュアな心の人で、レッスンも楽しいのですが、時々、私の性格や生き方をバッサリと否定する発言をしてくるようになりました。といっても、根拠なく言ってるのではなく、私のレッスンでの取り組みや発言から、私の弱さを見抜いているようで、全く的外れではないのですが、お説教のような、やや脅しのような発言が増えています。モラハラとまではいきませんが、なんだか以前のピアノの先生との体験を思い出し、息苦しさや威圧感を感じます。この先生は、教えるべきことはちゃんと教えてくれているので、前のモラハラ先生とは違います。でも似ているところとして、どちらの先生も、実は自分に自信がなく小心者なところ、そして、私が何気なく言ったことや質問に過剰に反応してムッとするところ、私が反論すると気を悪くしてその場からいなくなること、など。つまり、ちっちゃい奴らなんです。どちらも男性なのですが。 私はなぜいつも、ちっちゃい先生を引き当ててしまうのでしょうか。私は確かに質問が多いですが、先生というのは、質問されるのが嫌なのでしょうか。それでも、今の先生にはまだ教えてもらいたいことがたくさんあるので、今去ることは考えられません。完璧な人間などいないとわかってますが、こういう先生と、教わるべきことを教わりながら、どう関わっていけばいいか、ぜひアドバイスをお願いします。

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せっかちな老人

私の仕事場の老人ホームに、認知症ではあるのですが、食事やトイレ、歩行も自分でできる方です。女性です。先日業者による床清掃があり、その方にもちゃんと説明をして、3時まで終わらない事も伝え、それまでは別のフロアーに移る事も伝え、本人もわかったと返事をくださり、一緒にフロアーを移りました。すると1分もしないうちに、まだですか?と尋ねてくるので、同じ事を説明し、待ってもらいましたが、また、まだですか?と尋ねてこられ、今度は少し休みたいと言うので、自分の部屋ではないけれど、誰も使っていない部屋を用意したのですが、自分の部屋じゃないと騒ぎだし、落ち着かなくなったので、1人の職員が老人と一緒にその場を離れ、違う場所に歌ってもらい、そこでもまだですか?横になりたいと、騒ぎだし、職員も手におえないほどになってしまい、1時間早く床掃除も終わり、老人を自分のフロアーにもどし、お茶とおやつを食べていただき、なんとか落ち着いてもらいました。そこへ、私があまりにも1人で騒いでいたのを知っていたので、老人にどうして、静かに待ってもらえなかったのですか?みんな静かに待っていたんですよ、と伝えると、じゃ私が悪かったのねと言うので、思わずうんと言ってしまいました。すると、わかったよと大声を出し私に手を出してきたのです。あなたが1人で騒いだ事によって、1人の職員が、休憩も入らず、ずっと一緒にいてくれたんですよと伝えあまりわがまま言わないで下さいと伝えると、私がわがままなの?と言い、そうだよともつたえました。みんなと一緒に静かに待っていてくれればこんな事にならなかった事も伝え、迷惑をかけた職員に操ってきました。なので、ちゃんと謝ってくれて、ありがとうねと言葉をかけると、あんたはあっちいっててといわれ、私の事をすごい目でにらんでくるのです。その老人はこっちからの話しを理解できない人ではないし、せっかちな所、わがままを言っている事に気がついてほしかったし、少しでもいいので、そういう所を治してほしかったので、ちょっときつめに言ってしまいました。普段は職員に甘えてくるし、他人には嫉妬してくるし、自分の言った事をすぐにやってほしい人なので、なんでもハイハイと聞いてしまった所もあるので、ちょっと甘やかしてしまった所もあり、自分のわがままを全部聞いてもらえると思ってしまったようでせっかち待てないわがまま対処対策願います

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ