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自分に自信がありません。

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自分に自信が持てず、周りの人の顔色を伺ってしまいます。身に覚えがないのに、私に怒っているのかな?嫌われてるのかな?と不安になり、時には周りみんなが私を嫌っているように思えます。
また、自分は都合のいいだけの人で本当に必要とされてない、おまけの人ではないかと思ってしまいます。
どうしたら、不安な気持ちにならない考え方が出来るのでしょうか。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

他人と比べる必要はないんです。

 今の時代、他人と同じ事をしないと安心できない人が増えてきています。
しかし、生まれも育ちも同じ人間は一人もいません。
それぞれに個性があり、良いところも悪いところもあるのが人です。
でも、自分というものを一番知らないのも私自信かもしれません。
他人の目を気にして相手に合わせるのではなく、
あなたにしかできないその良いところを伸ばすようにされてはいかがでしょうか。
社会に必要とされない人間はいません。
自信を持って他人と比べることのない命を大切に生きてください。

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有り難し
おきもち

大阪仏教テレホン相談室の相談員をしています。

マジでタレ塗る5秒前

私もそうでしたよ。
一時期は人の顔も観れないほどでした。
「この人は私のことを嫌っているに違いない」とか、自分でストーリーを作っちゃんですよね。
それって、実は完全な「独自目線」です。
以下の事に気づきました。
これをよく読んで、自分の悪い癖に気づいて、ちょっとブレーキをかければすぐ治せます。
・出来事や相手に自分のセルフなイメージを持ってしまっている
・自分のフィルター越しに相手をみている
・焼き鳥やウナギにタレを塗りたくるように、自分の思いのペイントを塗っている
「マジでタレ塗る5秒前」と唱えてください。広末っぽく。笑
出来事や相手に、こちら側の思いのタレを塗っているのって、もう自分だってわかっているはずです。
そのペイント、やめましょうよ。
「どうせこうだ」塗り塗り
「きらわれたかな」塗り塗り
「ああ自分ってダメだな」ザブーン ← ペンキかぶった
いつもそうなのです。自分が!自分を損ねている。
自分が!相手を損ねている。
あなたは、自分のセルフ・ペイントを塗る前のまっさらな世界を生きるべきです。
思いのタレを塗りたくる5秒前の、白焼きの世界をそのまま味わうべきです。
もう、自分と相手に対する思いの塗りたくりをする「ハケ」は私が奪いました。
今からはもう、損ねないでください。
どこぞやのキリストさまの絵画を修復したら別物になってしまった、という事件がありました。
神も仏も、この世界も、あなた自身も、ペイントする前はそのままのすばらしいままなのです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます。
少しずつ自信をもつように努力いたします。

ありがとうございます。
クスッと笑えて気持ちが軽くなりました。
いつも白焼きでいられるよう意識します!

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