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友人への執着・嫉妬を無くしたい

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先日、facebookを始めた友人とのことを相談させて頂いたことで、友人に執着している自分に改めて気づくことになりました。
そして、執着は苦しみにしかならないという回答が、深く心に残りました。

思えば友人への執着は、どんどんエスカレートしていて、最近では、彼女が今何をしているのか、特に仕事が休みの日は誰かと会っているのではないかと、気になって仕方ありません。
facebookで、友達とランチをしたことや一緒にイベントを楽しんだ様子を知り、彼女の楽しそうな嬉しそうな様子を見ると、その友達をうらやましく思います。彼女とは遠距離でめったに会えないことも、その思いを強くさせるのだと思います。

自分では、そんなことを思うのはおかしいと思っているのです。
faceに書くのは彼女の自由なのだから、そんな気持ちになるのなら、見なければいいのだろうと思うのです。
また、自分以外にも友達がいるのは当然なのだから、気にすることはないとも思うのです。

解決策として、faceを見ないことにしようと試みたりもします。
でも友人は、日常の出来事や感じたことを日記代わりに書いていますから、友達付き合い以外のことも知ることが出来なくなるので、気になって見てしまいます。

なんとか、執着すること、彼女の友達に嫉妬することをやめたいと思っているのです。こちらの過去の相談に同じようなものを探して参考にするなど、自分なりに頑張ろうと思ってもいます。
でも、苦しくて苦しくて。
執着、嫉妬する自分が情けなく、恥ずかしく思うのですが、どうしたらいいのかわからなくなっています。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

友達を増やしては

どうもその友達にばかり意識が集中しているようですね。
もっと友達を増やしてみてはどうでしょうか。
趣味関係でもいいですし、何か教室に通ってみてもいいでしょう。
お寺のイベントに参加してみるのもいいです。
交流を広げて、友達を増やせば、特定の人への執着が薄まるのではないでしょうか。

その友達には「フェイスブック辞めるから、用事があったらメールしてね。」と、伝えてフェイスブックを辞めることをお勧めします。
ちなみに私はフェイスブックやってないです。

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おきもち

私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答していますが、無知未熟ゆえに質問を読ませていただくことしかできないことも多々ありますがお許しください。 回答は私個人の意見や解釈もあり、場合によっては浄土宗の教義とは少し異なることもあるということをご了承ください。 また、寺の紹介ページに電話相談についても紹介していますのでどなたでも気兼ねなくご利用ください。 ハスノハのお坊さんがもっと増えますように。 合掌 南無阿弥陀仏

インプットとアウトプット

アナタは彼女のアウトプットした情報をインプットしてばかりでアウトプットが無いから心の糞づまりになっているのですよ。(何ちゅう喩えだ)
フェイスブックはアウトプットする人がいなければどこにも役立つ情報は生まれません。
あなた自身をここで記したように、アナタがためになった事、あなたが気づいた事、あなたが勉強になったことを、誰かのお役立ち情報になるように発信してみてください。
私は、仏教の悟りを面白おかしく、だれにでも分かるように配信しています。(時々難しいことも書きますが)多くの方から共感を頂いております。そうすると、私もアウトプットしてよかったなあと思えます。共感者が生まれます。何となくその人たちとつながれます。実生活であることもあります。
このhasunohaの回答僧の川口英俊さんもその一人です。私は川口さんとのご縁が無ければここに来ることはありませんでしたし、あなたに回答することも無かったでしょう。お釈迦様のお弟子さんがお釈迦さまが仰られたことを、何度も復唱されていたそうです。それをたまたま聞いた方が「それはどなたの教えですか?」と関心を持たれて、仏教の救いが大きく世に広まりました。
あなたはどんどんアウトプットをしてみてください。必ず誰かに役立てる時が来るはずです。
お名前のいちごさんにちなんで申しあげれば、いちごさんの学ばれたことを通して、完熟した甘さや香り、色合い、可愛らしさを、受け取りやすい形で産地直送してみてください。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

回答、ありがとうございます。
ここに相談をしたら、おそらくフェイスブックは辞めた方がいいと言われるだろうと思っていたのです。
わかっているのにこちらに書いたのは、踏ん切りをつけたかったのではないかと。
お答えを頂いて「やっぱりそうよね・・・」と。
優柔不断な私が気持ちに決着をつけるために、こちらへの相談は必要だったと感じます。

私には、親友と呼べる人はいませんが、友達が全くいないわけではないですし、なぜ彼女に対してだけそのような感情になるのかはわからないのですが、今いる友達との関係をより楽しむことで、彼女への執着を無くしていけるといいのかなと思いました。
また、新たな場面に積極的に足を向けることが必要かなとも感じました。
何かに気持ちを向けることで、彼女を意識することを少なくしていくのが、今の私には必要なのでしょうね。
前向きに、何とか頑張ってみようと思います。
ありがとうございました。

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