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托鉢修行のお坊さん

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 以前、難波駅近辺でとても若いお坊さん(外国人のお坊さんもいた)が
お経を読みながら托鉢をレてました

でも凄い気合いで誰もちかずけない恐ろしい才ーラがあり…

近ずく人はいません。     しかしっ  私は

お金を入れてみたくて仕方なく   勇気を絞り込んで 遠めから

腕をいっぱい伸ばした! チャラン …  五百円 入れましたら

お坊さんが 頭を下げて私にお経を唱えてくれました(*_*)

でも 家に帰って思ったんです あんな凄い気合いでしてたのに

お金を入れる人がいた事は近ずいた人がいた事で…

寺に帰ったお坊さんは怒られたんじゃないかって…

教えて下さい  托鉢の修行とかあるなら お金を入れる人がいたら
気合いが足りなかったとかで怒られたりしませんか?

ずっとお20年くらい気になってしまっているので宜しく返信お願いします(>_

2014年3月10日 11:43

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

托鉢の意義

少し誤解があるようなので…。
托鉢は「人を近づけないようにするための修行」ではありません。
その逆で「多くの人が功徳を積むチャンスを作る」ためのものです。

僧侶を意味する言葉「比丘(びく)」の語源はbhikkhu、「食を乞う者」という意味です。
お釈迦さま在世のころ、仏教の出家者は世俗の労働をせず、托鉢のみによって食を得ていました。
在家信者は食事をお布施をし、彼らの修行を支えることで功徳を積んでいたわけです。

あらゆる人にお布施のチャンスを与えるため、僧侶たちはにぎやかな街やお金持ちの家ばかりでなく、過疎地の村や貧しい家へも分け隔てなく托鉢に向かいました。
マハーカッサパ尊者が、誰もが見放した瀕死の病人のもとへ托鉢に行ったときのことです。その病人は腐った一握りのご飯を鉢に入れようとしましたが、壊死した指までそこに抜け落ちてしまいます。尊者はその指をよけて、なんのことはなくその腐ったご飯を口にし、彼の最後の善行を完成させたそうです。

すずち様はお坊さまにお布施という善行為をなさったことで、功徳を積まれました。
聖者の集団、サンガを別名「福田(ふくでん)」とも呼びます。春に苗を植えた田んぼが、秋には何十倍何百倍もの実りをもたらしてくれるように、すずち様の元へもたくさんの福徳が訪れますように。

2014年3月18日 13:04
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有り難し
おきもち

青森県生まれ、宮城県在住。ミャンマー語が好き。子ども3人。 お寺の生まれ...

質問者からのお礼

良かった~ 

天野和公さまありがとうございます 良いお話も聞けて嬉しいです。

指が落ちた辺りは凄く怖くて流石に世界を感じました(||゜Д゜) 

「仏教における修行」問答一覧

修行と信仰と座禅や念仏

先日私の具体性に欠ける、奥歯にものが詰まったような愚痴のような質問に応えて下さり、ずっと回答を考察してました。 その時々の私の見たてがどうであれ、自分目線で世界を見ていては、環境にフラつきいつまでたっても頼りにならない自分の世界で苦しむ ことになりますよと、言われたように思います。 自分を苦しめているのはあらゆる煩悩で「自我」(自己中)だとココhasunohaでも僧侶の方が口酸っぱく何度も言っておられ、私も何度も自我を手放す手立てを見聞きしてます。 しかし無我や手放すと言うと、主体性を放棄しているように思えてならなかったのですが、自分と言うのは条件次第で左右され頼りにならないから例えば「縁起」や「空」、この世界は常に変化し、お互いに影響を与え合う相互関係にある。 みんな繋がってるから、自分もみんなも尊い存在、軽んじちゃダメ!ピラミッドの頂点に人が(自分が)立ってるんじゃなくて網の目の一つで、人知を超えた自然の働きも誰かに想われてることも誰かに想われてることに気づけなくても繋がってる。 と言ったことついて言葉の上では理解しても、自分が騒がしいのは、禅の方(ザックリですみません)が座禅をして余計(自我)なものを手放すと言う事と、歎異抄の中で親鸞聖人が「何が善で何が悪なのかそのどちらも私はまったく知らない…」と言っておられるのは自分から見たら許せない又は自分が裁きたいと言う想いを手放して、「…この世はむなしくいつわりで真実と言えるものは何一つない、ただ念仏だけが真実(確かなもの)である」とおっしゃり、自己のはからいを捨て念仏し阿弥陀様にお任せすると言う事と同じで、だから座禅する、だから念仏すると言うことでしょうか? だから思考が暴れても身体(振舞い)を整えることができる修行(座禅や念仏)や信仰が必要と言うことでしょうか? いつも長くてすみません。

有り難し有り難し 40
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この世は魂の修行場と言いますが

この世は魂の修行場と言いますが、自分の人生の汚点を作りつづけている人生の魂は汚れきっている事に気づきました 五年くらい前からネット上の掲示板などに不平不満をぶちまけたり、煽って来た人に煽ったり。いわゆる荒らしという行為 勿論いつもではありませんがストレスが溜まると息を吐くようにしている気がする 元々悪いんでしょうね悪役として生まれたんですね。   しかも自分は潔癖症なところがあり、ネット上と記憶ににこれらの汚点が残りつづけることが不快でたまりません。 相手に仕返しするために煽る際、汚い言葉を考える脳の思考回路が太くなって来る感じ 恥ずかしい話ですが、小説等創作物の登場人物を無意識に自分の理想にしてる事があり、その理想の登場人物と 自分の汚れきった自分を比べてひどくひどくひどくひどくひどく落ち込みます。 できればこの点をどう思うのかお聞きしたいのですが、ネット上のサービス(知恵袋)を使う際、本名で登録するのですが、 そのサービスを管理している人は自分がどんな事を書き込んでいるか知っているわけですよね? 勢い余って言ったことも残るし例えば仮に自分が有名になったら、あの人こんなこと書き込んでいたのかと しられますよね?自分の中を知られるのが急に怖くなるんですが、死ぬしかないんですかね 高校からネットなんか触れなきゃよかったと後悔していて、そのせいで人格も更に歪みましたし良いことがありません いまさら気づいてもネット上に何かを残すのがいつからか習慣になっているんです。 自分のしてることが全て悪手なんです 某動画サイトのコメント欄にレッテルを貼り言論弾圧してるやつがいたから 正論言ったら人格攻撃して来るしヒートアップして最終的には障害者扱いされてとても気分が悪い。 極論しか言えないのか 最終的に煽り合う事になりこれならその人にに最初から話しかけなきゃよかったと思うのですが。 この際ネット上にろくなやついないんでいい機会だと思い動画サイトのアカウントを 消したのですが、自分のコメントが消えるため向こうからすれば逃げたように見えますよね? ストレスがハンパないのですがどうすりゃいいんでしょう。  特定して個人的に会って潰さないかぎりおさまりそうも無い。

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スッタニパータ「874形態は消滅する」の内容について

いつもご回答ありがとうございます。 スッタニパータの中の理解できない箇所の一つに 以下の箇所があります。 お坊さんの御教示お願いいたします。 873で「どのように修行した者にとって、形態が消滅するのですか?楽と苦はいかにして消滅するのですか?どのように消滅するのか、その消滅するありさまを、わたくしに説いてください。」とあります。  次の874で「①ありのままに想う者でもなく、②誤って想う者でもなく、③想いなき者でもなく、④想いを消滅した者でもない。──⑤このように理解した者の形態は消滅する。けだしひろがりの意識は、想いにもとづいて起るからである。」 註では、①を凡人②を狂人③を滅尽定④を四無色定とありますが、873で修行した者について問うているのに①、②は修行者の範疇ではないようです。また、③が四無色定で④が滅尽定のように思われます。 勝手な考察ではありますが、 ①ありのままに想う者は、 ・概念で構築された言葉と一体となっている形態(個々の対象)をそのままに想う者  ・名称と形態は、妄想の元であると理解に至っていない修行者 ②誤って想う者 ・形態によって迷うのではないと想っている者 ・諸行無常を理解していない者 ③想いなき者 ・形態に対して想いをめぐらさない者。 ・想わないようにしている者 想わないようにしただけでは形態は消滅しない。形態には実体が無く、妄想(=苦)の元凶であると理解していない者。 ④想いを消滅した者 ・形態に対しての想いを想いで消滅させている者 ・想いを想いで取り扱っているかぎり想いはなくならない。 ⑤理解した者の形態は消滅する。 ・消滅させる(人為的)ではなく消滅する(自動的に消滅されている) ・想いなく形態が消滅する者でなくてはならない。 名称と形態が分離されたものと理解しなくてはならないのではないでしょうか。 名称は社会生活のために便宜的に付けられたものでしかありません。 例:お金(お金という名称)の本質は印刷されたただの紙。為替交換のできない国に持ち込んでも交換価値はありません。使用価値としては火をつけるときに使える程度のただの紙でしかない。 「私」というのも「私」という概念に付けられた名前だけであって、想いが続くことによって「私」が存在していると勘違いしているのではないでしょうか。 よろしくお願いいたします。

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全体と一体となる具体的な修行を教えていただければ幸いです。

 お坊さんにおかれましては、一年で一番お忙しい時に恐縮です。いつも具体的で親身な回答ありがとうございます。アドバイスよろしくお願いいたします。  宇宙は「無」から生じたという物理理論があります。宇宙の一切も遡れば所詮は「無」でしかない。  宇宙の一部である我々も「無」ではないでしょうか。 地球においても、創成期から多様な生物が存在していない。単純な単細胞生物から、多様な生物が進化したようです。地球の生命の源を辿れば、一つに繋がっている。気の遠くなるような年月を経て、生存競争を生き抜いた最強の遺伝子を携えた生命が今ここに生きています。  今の我々が、より恵まれたいとかより充実して生きていたいと個々に願うことは、遺伝的な本能から湧き上がる自然の衝動のように思われます。あらゆる生命の刹那の反応は、あらかじめ生命にインプットされた生存欲による自動的なものであると思われます。  我々人間は、生命として生きるために我に固執する「小さき心」が休むことなく働いていることに気づかされます。  「無」から生じた宇宙の一切は無限に広がり、「本来の心」も無限であり穢れのないものと思われます。我欲に縛られた「小さな心」は自由で無限である「本来の心」の一つの現れであると思われます。  「小さき心」が幻であると気づくか、「本来の心」と一体になれば、今まで対峙していた「対象」と「我」という二元の境は無くなると思います。個ということをあまりに重視した生命の本能から脱し、分離など無いとの気づきが訪れるのではないかと思います。  各宗派によって異なると思いますが、全体と一体になるような具体的な修行を教えてください。

有り難し有り難し 13
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