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仏教における種の概念と死の現場の妥協点?

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六道輪廻では、ヒトと動物を明確にカテゴライズする立場があるかと思います。(あくまで大雑把な区切り、とする見解があることは知っております)

遺伝子工学(ヒトの遺伝子を含んだブタの誕生、デザイナーズベイビーなどの事例)やペット葬儀が発達する昨今、葬儀をすべき生命としなくてもよい生命の区切りを、どのようにお考えでしょうか?
もしその区切りが恣意的なものであれば、無縁仏は困るから供養してくれ!みたいな話は一体なんだったのでしょうか?というか、過去の葬儀文化そのものが、疑わしく思えてしまいます。

まさに諸行無常や諸法無我を見える化するような技術が、更に発展していく見通しです。仏教界は死刑制度などの発信にも慎重なようですが、個人的には今こそ仏教の出番だと思います。 

https://www.google.com/amp/s/www.kyoto-np.co.jp/articles/amp/149140

そのあたりは、どんな状況になっているのでしょうか?宗派ごとの見解というより、お坊さん個人ごとの発信ばかりを目にします。組織的な働きかけを期待して待つのは、間違っているのでしょうか?

よろしくお願い致します。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

日本の仏教は、本来の仏教ではないのです

ご質問有難うございます。
拝読させていただきました。

ご質問が複数あるようなので、私なりの回答をさせていただきたく思います。

葬儀をすべき生命としなくてもよい生命の区切りについてですが、供養すべき生命はどのような命であっても供養すべきです。
葬儀をしなくてよい生命はありえません。

また、もともとお釈迦さまは、「葬儀は仏教者が行うことではない」といわれています。
現に、お弟子さんからお釈迦様の葬儀はどうされたらよいかと聞かれた際に、「お前たちは葬儀には関わらず自分の修行に励みなさい」とおっしゃっています。

時代の背景で、今のような葬儀の形になってはおりますが、その形態は時代背景によって変化しているだけです。
本来、仏教は「よりよく生きるため」「生きている人間のため」にあるべきものなのです。
そういう視点からみていくと、お坊さんがいまの葬儀文化を形成したのではなく、日本の社会が要求するような形に対応したと考えています。

そのため、無縁仏は困るから供養してくれ!というのも、困るのは残された遺族です。
(無縁墓になると物理的には困る場合もありますが・・)

死刑制度に関しても、私個人の意見では、仏教界はもとより日本が他の諸外国に比べると遅れている感じがします。
これも国民性があるからでしょうか・・・

現実的に考えれば、死刑制度もそうですが、尊厳死なども仏教界でどう受け止めるべきか考えないといけませんね。

余談ですが、仏教は「よりよく生きる」ためと申しましたが、僧侶は「苦しみを取り除く役割」も担っていると感じております。
その点からみても、このハスノハはよい行いかと感じております・・

+++

ご返事ありがとうございます。
とみたさんのご質問で、改めて仏教について考え、新しい気付きがございました。
なかなか周りを変えていこうと思うと難しいですよね。
とみたさんにお伝えした言葉が偽りのものにならないように、日々励んでいきたいと思います。

+++

今後の供養文化については書いている記事は、今のところないのですが、今後こういう内容も書いていきたいと思います。
カンタンにいってしまえば、苦しみや悲しみを癒していける文化になっていければと考えております。
またとみたさんのお考えもお伺いしたいです。

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おきもち

合掌 私は日蓮宗の坊さんです。 2人の男の子を持つ父親でもあります...
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葬儀は文化にすぎない。やりたいからやる

葬儀は、やりたいからやるだけ。
ただの文化・風習にすぎません。
だから、相手が人だろうと畜生だろうと、やりたければやればよいし、やりたくなければやらなくても良いです。
無縁仏で困るという意味がわかりませんが、お寺の境内にお墓やお骨を放置されると、他の檀家さんに迷惑になりますから、祭祀の後継者がいないなら、しかるべき処分(撤去など)をしてもらわないと、他人に迷惑をかけることになります。
亡くなった者のために、生きている人が善行為をして、その功徳を回し向けることは、良いことだと思います。
亡くなった方が、人以外の天や餓鬼や畜生や地獄に転生している可能性もあります。
功徳の回向や供養の対象は、人に限定する必要はないと思います。
死刑制度については、仏教では不殺生が基本ですが、世の中は仏教徒ばかりではありませんので、社会に対して仏教団体があれこれ口出しする必要はないかもしれません。
戒律は個人の問題です。
不殺生を徹底したい人は、あまり殺生しなくてよい職業を選ぶべきでしょう。
死刑執行に携わる仕事には、つかない方が良いでしょう。
しかし、現実問題としては、殺生しなくてよい職業はほとんどないかもしれませんね。

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おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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質問者からのお礼

ありがとうございます。
どちらのご回答もタイトルがド直球で、とてもうれしいです。

別に葬儀文化は悪いことではありませんし、多少仏教と乖離したって問題ないと思っています。但し、それを利用してポジショントークに励んだり、適当な説明で煙に巻く僧侶の多さ、何よりも鵜呑みにするだけの消費者に、ウンザリしているのが本音です。きっと多くの方も同じでしょう。
お二方のようにはっきりと違うと言って頂けると、仏教界の悪いイメージがかなり回復すると思うのですが、、。
まぁ文句があるなら、自分で変えろということなのでしょうね。
私のフィールドで頑張ろうと思います!とても参考になりました。

(なお、この質問はカーッと感情的に書いてしまったので、ラブレターを読み直したような恥ずかしさです、、!!!)

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神仏への信仰心がとても篤かった医療人のお話です。 その人は幼き時に難病で視力を失い、家督を譲って琵琶法師と鍼師のどちらかを選ぶときに医の道を選んだそうです。親には「二度と家の敷居をまたぐでないぞ」と突き出され、入門先の師匠は「素足に埃が付いたら掃除やり直し」覚えも良くなく、ある日鍼を持たせてもらった時には、患者さんが痛さで悲鳴と怒号のクレーム続出…ことごとく破門。 後がなく生死をかけ岩屋に篭もって断食修行、無我の境地で空腹に転び手にした松葉(鍼のような)と、くるまった落葉を元に、のちの管鍼法を発案。「これなら患者さんも痛がらずに下手な自分でも施せる」心の清らかな和一さん、あれよあれよと出世し果ては将軍の病まで治癒。「よくやった和一よ、褒美を与える。何でも申せ」と将軍、ところが見返りを求めなかった和一先生、儲けは要らんと一旦断るも、当時の上下関係では言語道断。お互いにプライドがゆるさず譲り合わなかった末(流石の将軍もこれで諦めるであろうと、盲目の自分に)「ひとつ、目が欲しゅうございます」と頓智を効かせたところ「わかった」と将軍は引き下がり、しばらくして江戸の一ツ目という地名の土地に、「盲目と老体が遠方まで行かずともお参りできるように」と江ノ島の弁財天様を勧請、老いても尚熱心に参詣を怠らぬ和一検校を自分のケアスタッフとして「そばに置いておきたかった」のもあり、治療院のみならず弟子の養成所と神社まで併設、そして今も残るそうです ハンデがあっても自立して生きていける術を磨く、世界初の視覚障害者用職業養成機関は、実は江戸時代に「盲目となり家を出され、師弟関係も破門され…住むところもお金もなく、仕事のセンスにも恵まれず…只管に神仏に手を合わせ続けた」信仰篤き偉人の苦労の先に日本で生まれた逸話、私は大好きです! 話が長くなりましたが、私も勉強をし指圧師となって施術をしたいと毎日仕事に明け暮れています。元ヤン僧侶さんは「目標が半端ねぇ。もっと効率的にガッツリ考えろ」と喝を入れてくださいました(笑)息を吸うように朝日が昇れば仕事が入ってきて、6月は休みなしで母の日から連勤達成更新中です。今の仕事も好きですが、やっぱり指圧を専門学校で学びたい。 先日お寺でふと仏様から「前へ。只管に進みなさい」と声が聴こえた氣が…私の指圧を喜んでくれた母の為にも入学が叶うようエールをいただけますか。

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