この世は因果応報なのでしょうか?
うつ病で会社を退職しました。
職場では嫌がらせを受けて本当に苦しかったです。
なんでこんな目にあったのか、私が悪かったからなのかと今でも悩みます。
自分が悪かったとしても、どこを直せば良いのか分かりません。
自分はこの世に適合しない存在、生まれてきてはいけない存在なのではないかと絶望的な気持ちになります。
運が悪かったと思いたい一方、何故、その様な災難が私に降りかかったのかと辛くなります。
どちらに転んでも自分は辛い人生しか待っていない気がします。
この世は因果応報なのでしょうか?
幼児虐待でなくなる子供がいますが、彼らが何か悪いことをしたのでしょうか?
それともこの世はただただ無情なのでしょうか?
幼児の内に虐待で亡くなるのも、戦争に巻き込まれて死ぬのも運命の一言で片付けられることなのでしょうか?
どのような心構えで私はこれから生きていけば良いのでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
因果応報は物事の道理を説いた教えです。
たぬきさま
因果応報、難しい言葉ですね。善因善果、悪因悪果だから良いことをしなさい。
悪いことをしたら自分に跳ね返ってくるよ。ということだと言われていますね。
「なんでこんな目にあったのか、私が悪かったからなのか」
悪い因縁があるのか。そんなことはありません。
原因があって結果がある。物事の道理を説いた教えです。
今、良いことをしたから、生活がすぐに良くなるわけではありません。
でも優しい気持ちになれたら心が豊かになりませんか。
微笑みが浮かびませんか。その小さな積み重ねがその人の人生を変えていくんです。
因果応報は大きな時の流れの中で生かされてるんですよということです。
仏教では外に原因を求めるのではなく、自分の心の中に原因を探します。これを内観と言います。
現代社会は努力をすれば必ず報われるというような良い世界ではありません。残念なことです。
たぬきさんは文章も上手でおそらく仕事も人よりもできる方なんでしょう。
ただ他人とのコミニュケーションがとりずらいのではありませんか。
悪いところを嘆くよりも得意分野で活躍してください。きっと理解してくださる方が現れます。
また悩みがあればいつでも書き込んでください。
因果応報というのは、仏教の根本的なおしえですが、それがそのまますべてのひとの人生にぴったりと当てはまるわけではありません。
残念ながら、生まれながらに不幸な人もいますし、なにも努力をしなくとも幸せな人もいます。不幸にも幼くして亡くなる子もいますし、善人でありながら理不尽な目に遭う人もいます。そういうときに「前世の業が〜」とか「来世では〜」というのは僕は個人的に好きではありません。前世や死後の記憶がない限り、人の人生というのは一度きりです。
因果応報というのは結果論な部分もあります。結果が出た事に対して「因果応報」というのは簡単ですが、世の中なかなか結果が出ないもの。幸せな人生を送っても最後の最後に不幸になるひともいますし、不幸な人生でも最後は穏やかな死を迎える人もいます。
なにが大事かというと、「因果応報である」と信じて出来るだけ良いことを行うことです。哲学的な側面の強い仏教ですが、そこはもう「信じる」ほかありません。それを説かなければもはや仏教は宗教ではありませんから...
結果というのは、最後の最後までわかりません。いまは、良い結果がを出すために「良い因」を行い、「良い縁」を待ちましょう。
経験不足から、精神論しか言えずに申し訳ありません。
因縁果の理
たぬき様
会社で嫌がらせを受けられて苦しまれ、うつ病となり、退職せざるをえなくなるまでに追い込まれてしまわれましたこと・・本当におつらいことでございます・・
あまりご自身を責めることはなさられずに、うつ病の克服へと向けて、周りの理解とサポートを得られながら、心の傷を癒して頂けましたらと存じます。
「因果応報」とは、世間の使い方では悪いイメージが先行してしまっている感が否めませんが、正しくには、善いことも悪いことも含めて、全てのこの世のモノ・コトというものは、因縁(原因と条件)によって結果が成り立っているという、「因縁果の理」のこととなります。
何も原因が無く、また、何も条件も調わないのに、結果が生じることはあり得ません。
例えば、種も撒いていないのに、花は咲きませんし、種を撒いたとしても、土や養分や水や光などの条件の無いところに撒いても、花は咲きません。
あるいは、土や養分や水や光と条件は調っていても、種がなければ花は咲きません。
もちろん、色々な複雑な因縁が無数に絡み合って成り立っている世界であり、単純にこれとこれで、こうなったとは言えないこともございます。
過去世、前世から引き継がれている私たちの個々で抱えている業・カルマというものも、それが様々に複雑な因縁の中でどのように作用するのかというものも、なかなか予測ができないところもございます。
業・カルマによる結果としての報いを受けるのにも、大きく分けて「三時業」として、今の生きているうちに出るものもあれば、次の輪廻において出るもの、また次の次の輪廻において出るものといったように、ございますし、更に幾つもの輪廻の後に出るという場合も当然にあり得るものでございます。
いずれにしても、悪業を慎み、善き行いにしっかりと努め励み、善き業をしっかりと積んでおく因縁を調えておければ、必ず悟り・涅槃へと向かうことが、できていけるということになります。
とにかく、迷い苦しみの世界ではございますが、人として生まれることができる善き因縁がありて、今、人として生まれることができております。更には有り難い仏法とも出逢えるご縁にも恵まれております。是非、この恵まれた機縁を活かし、仏教を修習することで、悟りへと向けた善き因縁を更に調えて参りたいものでございます。
川口英俊 合掌
救いの道はある
たぬきさま
戦争、いじめ、虐待どれも許されないことです。巻き込まれた方々はあなたが言うように、何にも悪いことはしていません。
しかし、現実として巻き込まれてしまうという事実があります。
因果応報という言葉が当てはまるかどうかわかりませんが、事実は、目を開いて目を向ければその先のものが見える。
チョコレートを食べれば、チョコレートの味がする。ドアをノックすればトントンと音がする。ということだけです。
そこに因果が一緒の間に起きるのでしょう。そこに善悪もなくただ起きているということが事実です。
たぬきさんが辛い思いをしてしまった過去がある。しかし、それはたぬきさんの行いのせいではないでしょう。今はその過去の苦しみはない。思い出したら辛い気持ちになるけれど、現実はもう救われているでしょう。そこに気づくためには六根や五感を使います。考えや思い、以前の事実を感じ、救いの道を見つけましょう。
質問者からのお礼
皆様
アドバイスいただきましてありがとうございます。
私には3ヶ月になる子供がいます。
まだ寝返りもできず善悪もわかりません。
こんな無垢な子供と同じ月齢の子供が虐待で死亡したというニュースを聞いてとても悲しく感じました。
また、同時にこの子は生きていると同時に生かされていると感じました。
それは私にも言えることです。
今まで辛い思いをして、大きな挫折も味わってきましたが、
きっと何か大きな力で私は生かされているのかもしれません。
また、この辛い経験は因果の「果」ではなく「因」の面もあるはずです
将来、この経験をきっかけに良い「果」を実らせたいと思います。
ありがとうございました。