祖母が亡くなったのに泣けない
初めまして。
タイトルの通り、先月祖母が亡くなったのに、未だに泣けないでおります。
祖母には私が幼い頃から本当に可愛がってもらいました。
朗らかで穏やかで優しい人で、一度も怒ったところを見た事がありません。そんな性格だったので周囲の人にとても好かれ、葬儀の時は皆涙に暮れる、といった様子でした。
祖父が十年前に亡くなってからは病気がちになり、実家に戻り出来る限り祖母を介護しました。
介護を一度も苦痛とは思いませんでしたが、祖母はいつも「申し訳ない」と謝っていました。
この一年ほどは病院と施設を行ったり来たりでした。私は医師なので数えきれないほどの死を見ており、祖母もいつどうなってもおかしくない状態という事は理解しておりましたし、覚悟もしているつもりでした。
ただ、祖母が亡くなったら自分は生きていけないのではないか、と不安に思っていました。
ところが、先月祖母が亡くなった時から今まで少しも涙が出ず、それどころか悲しいという感情すらありません。
時折「寂しいな」と思う事はあります。しかし持続しないというか、考えないようにしてしまうのです。
葬儀の際、周囲の方から口々に「おばあちゃんはいつもあなたの事を話していた、本当に感謝していた」と言われました。
涙も出ない冷酷な私が、祖母に感謝してもらう権利はあるのかと思います。
泣けない、悲しいと思わない事は異常だと分かっていますが、自分でも自分の心理が全く分かりません。
こんな薄情な孫を祖母は悲しんでいないか、とても気がかりです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
涙の有る無しに関わらず
こんにちは、初めまして。
先ずはお悔やみ申し上げます。
文面からは、あなたのお祖母さんへの慕わしい想いが読み取れます。
「祖母が亡くなったら自分は生きていけないのではないか」と思うほどに、あなたの人生に無くてはならない人だったのでしょう。
「周囲の人にとても好かれ、葬儀の時は皆涙に暮れる」ほどのご人徳をお持ちであったのですね。惜しい人を亡くされました。
「私は医師なので数えきれないほどの死を見ており」とのこと。
私も立場上、多くの遺族の方と接します。
その経験から言いますと、涙として表現できる人とそうではない人が居る、ということです。個人差があるということですね。涙として表れ=悲しむ、涙がない=悲しんでいない、ということではないと思います。
もう、亡くなって7回忌を迎えるけれども、故人が亡くなったという実感がない、という方もおられます。普段出張が多い人であったり、遠方で暮らしている人等の場合は、いつかふらっと帰ってくるような気がする、と言われます。玄関に、ただ今!の声が聞こえてくるような気がする。人間の感覚とは、竹で割ったようにスパッと整理は出来ないものだと思います。
「泣けない、悲しいと思わない事」を「異常」とする必要はないと思います。
悲しいという感情の表れは、人それぞれでしょう。
あなたは、まだお祖母ちゃんの死自体を実感できていないのかもしれません。
お祖母ちゃんは、その深いご人徳で孫であるあなたそのままを愛されたのでしょう。こういう人間にならなきゃ、私は悲しいと言われましたか。違うと思います。
いつしか、あなたの胸の中でその死が現実のものとして受け入れられる時が来るかもしれません。
その時に泣ければいいし、泣けなくてもいい。
涙の有る無しに関わらず、あなたに向けられた愛情はあなたの中で生き続けるでしょう。その姿に、お祖母ちゃんはきっと満足しておられるでしょう。
御身お大事に。
その感情が大き過ぎて、逆に泣けないのでは?
泣けない、悲しいと思わない事は
あなたなりのグリーフなんだと思います。
それに
そこまで想っているのだから
薄情だなんてことはありません。
お祖母さまにも伝わっていますよ。
私の場合ですが
嫌いな親戚が亡くなった時
全く悲しくなかったのに
お葬儀の後半から
涙が止まりませんでした。
今でも不思議でしたが
自分の気づかない心の奥底で
何かが反応したのでしょうね。
あなたの場合は私とは真逆ですが
同じ構造のような気がします。
質問者からのお礼
和田様、釋様、ありがとうございました。
泣けない事も、哀しいと思えない事も異常ではないと言われ、胸のつかえがとれたような気が致しました。
釋様の、「こういう人間にならなきゃ、私は悲しいと言われましたか。」というお言葉にハッとしました。
祖母はいつも私が自由に生きる事を望んでいた人です。そんな風に思う訳がありませんでした。
祖母にもらった溢れるほどの愛情を糧に、これからも生きていこうと思います。