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心配症の克服

回答数回答 1
有り難し有り難し 25

私は去年、病気をしてから心配症がひどくなり、検査のたびに胸が苦しくて辛くて泣きそうになります。
結果を聞くまで怖くて。
少しでも体調が違うとまた病気なのではないかと不安でたまりません。
私は風邪ひかずずっと健康でいて、病気と診断されて手術することになっても元気でどこが?っていう感じで疑ってばかりですし。どうして私が?なぜ?という気持ちでいっぱいですし、どこか他も悪いところがあるのではないかなど、思ってばかりで。もっと、大丈夫だ!と自信をもって前向きに生きていきたいのに。
春から楽しめることを見つけて頑張る予定なのですがまた、病気になってそれができなくなったらと考えて辛くなります。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

まだ、起きてないから大丈夫っす

分ります。その気持ち。私も昔、その時が来るまで心配で心配でねぇ。胃カメラ最初に飲んだ時なんか、無駄に悩みました。心配するだけ損でした。
あれこれ考えすぎると、結局本番の現場、土壇場、リアルでも損しっぱなしです。
あ、紹介が遅れましたワタクシ、かつて頭の中であれこれ黒い妄想が膨らんで考えすぎて、結局リアルでもいつも損する僧侶業界の黒い沈没船リア・デ損と申します。
現実では実際に起きてないならば、今から凹んでもヘコ・ミゾン(凹み損)です。
イイ方法があります。
マンガMMRを読むことです。
その最悪の事態が実際に起きてから、起こってから考えましょう。
仮に起きたとします。
起きたとしても30分、事のなりゆきを見届けてから、最後に一声、意見を言えばいいのです。
実はところが本当は、まとめの一言こそ大事なのです。
結果がどうであれ「損したなぁ」「ダメだった」「シッパイだ」とかネガティブな発言を すると、リアデ損になりますから、
「まぁいっか」「結果オーライ」「まだ3合目」「今ドレミのレ。ラシドまで見届けよう」と思いましょう。
仏法においては本当は損なんてないのです。
損にしてしまうのは自分の頭の中のラベル貼りにすぎません。
心配性というのは、その結果に対するネガティブ評価を恐れているだけです。
それは実は自分が評価しているだけです。
どう転んでもOKじゃんという目線を持つと無くなります。
※MMR…少年たちを「地球滅亡」「宇宙人侵略」など、不安に突き落として結局いつも何も起こらないというオチが連続する心配性を克服させるための医療用マンガ
https://www.google.co.jp/search?q=%EF%BC%AD%EF%BC%AD%EF%BC%B2&hl=ja&biw=1280&bih=604&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ved=0ahUKEwjD1-7okZjLAhVjLKYKHYqlBGcQ_AUIBigB

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます!!
目から鱗です。
そうですね!!何度も読み返して笑いが止まりませんでした!
笑うと元気が出て!!すごいです!
なぜか、今もすごく前向きなんです。
私の中で本当に何かが変わった感じです。本当にありがとうございます(≧∇≦)

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