日々を穏やかに過ごす為には
仏陀の教えには、一切皆苦、諸行無常、諸法無我、これらを正しく理解したうえで、世の中を捉えることができれば、あらゆる現象に一喜一憂することなく心が安定した状態になり、
苦しみから解放されるとあります。
現在の私は周りに期待せず、求めず、諦める事で心の平穏を保っています。しかし全てを諦めることは難しく、多少の浮き沈みもありますが、特に不満というほどの事もありません。
しかし疑問もあり、本当に欲を削ぎ落とし、
求めず、一喜一憂することなく平穏に過ごすことが幸せなのでしょうか?何かを求め、手に入れたときの喜び、又思い通りに行かなかった時に怒り、悲しんでいる方が、人間らしく生きるという事ではないのでしょうか?。
求めないという生き方は、悲しみや怒りといった負の感情は少なく抑えられますが、その分喜びもあまりありません。物事に対し一喜一憂する事なく平穏に過ごす事が果たして本当に人として幸せな事なのでしょうか?
人に期待をしない、求めないが心情。 人は基本的には自分の事しか考えていない生き物だと思っています。誰かに優しくするのも巡り巡って自分の為にやっている事だと考えます。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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煩悩が悟りへの大切なきっかけになります
たったゃんさん、おはようございます。ハスノハに相談を寄せて頂き、有り難うございました。たったゃんさんは、大きなきっかけがあって本気で仏教を学び、その学びの中から 日々の実践を重ねてこられた方だとお察ししました。さらにその実践を振り返り、新たな問いが生まれたのですね。すごいことです。
私は、たったゃんさんと同じ40代です。「人間らしく」という言葉はそれぞれイメージが違いますが、私自身は喜んだり悲しんだりすることも大事にしたいと思っています。東日本大震災以降、次第に涙もろくなってきたことも実感しています。
仏陀が教えていることを私の言葉で表現するなら、「自分のその時の感情に振り回されない」ということです。言葉を変えたら「心の重心をいただく」ということです。美しいものを見たら感動します。理不尽なことを体験すると腹が立ちます。優しい言葉をかけていただくとホッとします。人間が持つ感情は、人と繋がりを持ち、力を合わせて共に生きていく上でとても大切なことです。しかし、その感情がその時の自分中心の受け止め方で終わっていないかと確認をすること。相手の受け止めをおもんばかる心身の余裕が持てるようになること。様々なことで揺さぶられていいのです。どれだけ揺さぶられても、真のよりどころに立ち戻ることができることを私は大切にしています。ただ感情を抑えるだけなら、たったゃんさんが気づいているように人生の喜びや感動は少なくなるでしょう。
さらに、仏教は自利(=自分が悟りの境地を得ること)だけではなく、 利他を目指しています。日々、感情に振り回されている方々にも関わり、ともに歩むことを大切にしています。一喜一憂してしまう人間の正直な姿も、ありのままに観ることになります。本来、自利利他で一つですから、たったゃんさんだけが安定した状態になることが仏教の最終的なゴールではありません。どうぞ、一緒に揺さぶられながら苦悩も感動も喜びもともにし、そのお互いが仏陀に導かれていることを楽しんで生きていってください。
今後の仏縁の深まりとたったゃんさんの熟成を楽しみにしています。
仏教は「感情をなくせ」という教えではありません。うれしい事があったら喜び、悲しい事があったら悲しんでいいと思いますよ。ただ、うれしい事があったからと、自慢したり調子に乗りすぎないように、また悲しい事をいつまでも引きずらないように、コントロールする事が大事だという事だと思います。
母乳を飲まなくても平気
赤ちゃんの価値観から見れば、母乳を飲まない人生には幸せがないと思えるかもしれません。
しかし、私たちは成長し、母乳を飲まなくても平気になります。
また、たんぱく質、カルシウムなどの栄養成分の知識を得ることで、自分に不足している栄養を狙いうちで食べることまでできるようになります。
お釈迦様のように悟って心が成長すれば、「一喜一憂」の哺乳瓶を手放しても平気になるのではないでしょうか。