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日々を穏やかに過ごす為には

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有り難し有り難し 42

仏陀の教えには、一切皆苦、諸行無常、諸法無我、これらを正しく理解したうえで、世の中を捉えることができれば、あらゆる現象に一喜一憂することなく心が安定した状態になり、
苦しみから解放されるとあります。

現在の私は周りに期待せず、求めず、諦める事で心の平穏を保っています。しかし全てを諦めることは難しく、多少の浮き沈みもありますが、特に不満というほどの事もありません。

しかし疑問もあり、本当に欲を削ぎ落とし、
求めず、一喜一憂することなく平穏に過ごすことが幸せなのでしょうか?何かを求め、手に入れたときの喜び、又思い通りに行かなかった時に怒り、悲しんでいる方が、人間らしく生きるという事ではないのでしょうか?。
求めないという生き方は、悲しみや怒りといった負の感情は少なく抑えられますが、その分喜びもあまりありません。物事に対し一喜一憂する事なく平穏に過ごす事が果たして本当に人として幸せな事なのでしょうか?


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

煩悩が悟りへの大切なきっかけになります

 たったゃんさん、おはようございます。ハスノハに相談を寄せて頂き、有り難うございました。たったゃんさんは、大きなきっかけがあって本気で仏教を学び、その学びの中から 日々の実践を重ねてこられた方だとお察ししました。さらにその実践を振り返り、新たな問いが生まれたのですね。すごいことです。

 私は、たったゃんさんと同じ40代です。「人間らしく」という言葉はそれぞれイメージが違いますが、私自身は喜んだり悲しんだりすることも大事にしたいと思っています。東日本大震災以降、次第に涙もろくなってきたことも実感しています。
 仏陀が教えていることを私の言葉で表現するなら、「自分のその時の感情に振り回されない」ということです。言葉を変えたら「心の重心をいただく」ということです。美しいものを見たら感動します。理不尽なことを体験すると腹が立ちます。優しい言葉をかけていただくとホッとします。人間が持つ感情は、人と繋がりを持ち、力を合わせて共に生きていく上でとても大切なことです。しかし、その感情がその時の自分中心の受け止め方で終わっていないかと確認をすること。相手の受け止めをおもんばかる心身の余裕が持てるようになること。様々なことで揺さぶられていいのです。どれだけ揺さぶられても、真のよりどころに立ち戻ることができることを私は大切にしています。ただ感情を抑えるだけなら、たったゃんさんが気づいているように人生の喜びや感動は少なくなるでしょう。
 さらに、仏教は自利(=自分が悟りの境地を得ること)だけではなく、 利他を目指しています。日々、感情に振り回されている方々にも関わり、ともに歩むことを大切にしています。一喜一憂してしまう人間の正直な姿も、ありのままに観ることになります。本来、自利利他で一つですから、たったゃんさんだけが安定した状態になることが仏教の最終的なゴールではありません。どうぞ、一緒に揺さぶられながら苦悩も感動も喜びもともにし、そのお互いが仏陀に導かれていることを楽しんで生きていってください。
 今後の仏縁の深まりとたったゃんさんの熟成を楽しみにしています。

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有り難し
おきもち

1971年生まれ。本願寺派布教使・源光寺第14代住職 別名「絵本のお坊さん...
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 仏教は「感情をなくせ」という教えではありません。うれしい事があったら喜び、悲しい事があったら悲しんでいいと思いますよ。ただ、うれしい事があったからと、自慢したり調子に乗りすぎないように、また悲しい事をいつまでも引きずらないように、コントロールする事が大事だという事だと思います。

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有り難し
おきもち

・曹洞宗/静岡県/50代 平成27年鳳林寺住職。平成28年hasunoh...
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母乳を飲まなくても平気

赤ちゃんの価値観から見れば、母乳を飲まない人生には幸せがないと思えるかもしれません。
しかし、私たちは成長し、母乳を飲まなくても平気になります。
また、たんぱく質、カルシウムなどの栄養成分の知識を得ることで、自分に不足している栄養を狙いうちで食べることまでできるようになります。
お釈迦様のように悟って心が成長すれば、「一喜一憂」の哺乳瓶を手放しても平気になるのではないでしょうか。

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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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「心穏やかに・優しく過ごしたい」問答一覧

悪気のない人がひたすら恐ろしい

以前、自分の落ち度でとある人にお叱りを受けたとき、いわゆる放送禁止用語(あとで調べたので確かだと思います)を使って厳しく言われたことがあります。 その言葉は、精神疾患を持っている人を揶揄するのにも使われ、実際に精神疾患を持つわたしは傷つきました。 信頼できる専門職の方にそのことを相談したところ、「もともとがあなたの落ち度といっても、傷ついた自分を認めて受け入れるのは当然のことだ」と言っていただきました。 その言葉をいただいて、70%ほどは自分の中で整理がつきましたが、どうしても本能的な恐怖心までは消えません。 お叱りを受けたとき、精神科や心療内科に通っているか聞かれましたし、「精神疾患は遺伝する」とも言われました。 怖いと思ってしまうのが、叱ってきた人が悪意ではなく「助けてあげる」という善意でこれらを発言されたことです。それなりの地位も名誉もある人で、もしその人とわたしで対立したとしたら、周囲はその人のおっしゃることを正しいとみなすでしょう。 でも、精神疾患と付き合うひとりの当事者として、どうしてもその人の発言は許せません。まったくの善意で発言されたことも恐ろしい以外の言葉が見つかりません。その人がこの世からいなくなればいいのにと願ってしまうほど、恐怖と怒りにさいなまれています。 どうすればこの恐怖と怒りに折り合いをつけ、心穏やかに日々を過ごせますか。また、どのように心をもてば、社会的に影響力のある人がこのような発言をしても、必要以上に恐怖にかられず生きていけるでしょうか。

有り難し有り難し 13
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人と自分に優しくするにはどうすればいい

いつもお世話になっております。毎晩頭の中で堂々巡りになってしまっているため、ご相談させていただきました。 最近よく自分の心を虐めた影響か、果たして自分が他人に優しくできているのかわからなくなりました。 私は不注意や気遣いができないことなど、人が成長する上で当たり前に身につける対人スキルが欠けている感覚があります。今までそんな自分を卑下ばかりしてきました。 しかし恋人ができ、何だか周りの人達を大切にしたい気持ちが生まれてきました。けれど心を大切にするという事を、1番身近な自分の心にしてやらなかったからか、何がその人の心を慈しむ方法なのか分からなくなってしまいました。 愛してるからと近づきすぎてもそれは鬱陶しいと思われてしまうし、逆に相手自身の思うままに生きて欲しいと願うと、突き放した冷たい印象を持たれてしまいます。 もちろん人間の心なんてどれだけかかっても読めないし、わかっても変えようとは思いません。 ただ何度も知らぬ間に自分を傷つけ人を傷つけてきた今では、いつ自分が相手の心を粗末にしてしまうのかわからず恐怖しています。もう生きていくことすら投げ出したい気持ちです。 こんな私をどうか客観視して、ご意見をいただければ幸いです。 ご返答よろしくお願い致します。

有り難し有り難し 13
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今後の心の持ち方を教えてください

これまで何かあると祖父に相談にのってもらっていましたが、今は出来ず、おじいちゃんならなんて言うかな、と想像はしても答えは出ず…誰にも相談できなくてこちらで話を聞いてもらいたいです。 会社の付き合いで飲み会に参加した夫が先月、今月と(その前にも1度)朝帰り。朝、子どもと食事してたり、出かける朝の準備をしていると帰ってくるのです。 会社での付き合いとはいえ、終電に乗れず、泊まって帰ってくるって普通の事なのでしょうか? 普段は仕事が終われば、帰ってきますが… 数回のことは目を瞑るべきですか? 私は、朝帰りは子どもにも見せるべき姿ではないと思っています。 その事を伝えると、分かったとは言いますが、結局自分がなんでこんな言われないといけないんだ、とものを投げたりします。 物を投げたりするのはやめてと、冷静に伝えました。 接待や、付き合いで行きたくなくても仕方ないのに、こんなふうに言われて…という感じで、逆ギレのような感じです。 ちなみに飲み会がダメとは言ってません。 私の伝え方が悪いのでしょうか。 こういう答えが返ってくるだろうことは、想像してましたし、想定内でした。 どうすればいいのでしょうか。 心の持ち方や、どうすればよかったか、などお声をいただけると助かります。 正直私も働いていて、疲れています。

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人は優しくなくなったのでしょうか。

最近の状況とか、ニュースだけではなくて、 人は優しくなくなってしまったのでしょうか。 学校では、 わからないことを聞いているのに「そんなこともわからないなら特別支援学級に行きな」と言う先生がいると、 学校に行きたくないと感じて登校を渋っていると「わざわざ迎えに来てあげたのに、行かないってどういうこと」という養護教諭がいると、 勉強が苦手で、それでも一生懸命調べて宿題を提出したのに「答え教えてもらってんでしょう」という担任がいると言い、 子ども達は学校どころか大人を信じてくれなくなっています。 生活支援を受けながら病院に行って、病気ではないかと不安に感じている患者に「気のせいだからなんともないけど、そんなに薬飲んでどうすんの?タダだから?」という医者。 うつ病を患い不安で一人でいられない人に「甘えてんでしょう。なんでも一人でやっていかないと」という精神科医。 勇気を振り絞って助けてほしいと相談の扉を叩いてくる人に、「そのくらい自分で何とかできないもんなの?」という相談員。 それなら誰にも頼ってはいけないんですか。と、泣いている人がいます。 他人の少しのミスや問題を晒しあげて騒ぐのは、みんな。 相手のうれしい事を共に喜べず、妬んで陰口を言うのは、みんな。 寛容になれないのは何のせいですか。 そんな私も、それらが目に付いているという事は、優しくないのでしょうか。 優しさとは、何でしょう。 「相手の立場を鑑みて、許すこと・労わる事」と感じています。 それも、みんなは考えないのでしょうか。 いちいち考える私は、何でしょうか。 時には厳しい言葉も必要な時もあるのはわかります。 しかしながら、開口一番、関係性も希薄なうちに、そんな言葉を投げかけて、 傷つかないんだろうか。とか思わないんでしょうか。 それとも、そんなに偉いんですか。 先生と呼ばれる者は、相談員・支援員は、そんなに偉いんですか。 他人を否定していいほど。 そうはなりたくないという戒めも込めて、 人は優しくなくなったのでしょうか。 どうか、お言葉をお願いします。

有り難し有り難し 24
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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ