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人間関係

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人間関係について悩んでいます。

同期で一緒に働いている人で、天然のボケなのか、わざとボケているのか分からない人がいます。

その方は私より3歳年上で同性、自分では親切にしていると思っているらしいのですが、私にはお節介としか感じません。

仕事が始まると、昨日までできていた事が出来なくなっていて、パソコンの電源も何処にあるのかわからない状態です。

毎日行っていることです。不思議に思った上司からパソコン使った事無いの?と聞かれ、家にあり触っていると答えます。

そのわりには、パソコン用語が分からず必ず同じ間違いをします。見ている私はイライラしてきます。そこで私が分からなければ、ノートに書いたり、付箋に書いたりしたら良いのではないか?とアドバイスをしたらそれは貴方のやり方であって私のやり方とは違うから生意気な事言わないで…と言われました。

生意気な事を言ったのかと、その場は謝りましたがこれから先一緒に仕事をしていかなきゃならないと思うと、身体が拒否反応を起こし今日は仕事を休みました。現在精神科にかかって薬を飲んでいます。

主人は体を壊してまで行く事は無いと言ってくれますが我が家も決して余裕がある訳じゃないですし、借金もあります。

新しい職場を探していますが、何処にでも必ずうまのあうひとと合わない人はいるはずです。この先どうしたら良いのか悩んでいます。

大人気ないとは思いますが、どうかアドバイスをお願いします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

テンテンさま、藤尾邦泰と申します。
ご質問を二つに分けて答えさせてください。

同期の同僚について、引き続きお仕事をされる場合は極力関わらないことが得策です。
苦しみや悩みを生じる原因から逃れるのが仏教の目的です。もちろん自己の心にある苦悩の原因を取り除くことが出来ることが理想ではありますが、容易に出来ることではありません。
そこで、外的原因である同僚と距離をおくことをお勧めします。
そうしているうちに同僚に対する周囲の人々の反応も出てくるのではないでしょうか?

もう一つの答えは
「新しい職場を探していますが、何処にでも必ずうまのあうひとと合わない人はいるはずです。この先どうしたら良いのか悩んでいます。」
についてです。
怨憎会苦(おんぞうえく)といって四苦八苦のうちの一つで、嫌いな相手と会わなければならない苦しみという意味の言葉があります。「何処にでも必ずうまのあうひとと合わない人はいるはず」とご自身も仰っていますが、まさにそれが怨憎会苦なのです。
しかし心身を損なうほどに影響があるならば転職も選択肢のひとつだと思います。
家計のために仕事をしても病にたおれては何の意味もありません。それどころかかさむ治療費がより家計を圧迫しかねません。
ここはひとつ、無理をせずに穏やかに日々を送るということを目標にするのが先決でしょう。

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おきもち

マイルールを強要するべからず

テンテンさんこんにちは。
タンタン、こと丹下です。
同じパンダみたいな名前同士よろしくお願いいたします。
相手が気に入らないと思うことは一生続いていきます。
職場を変えてもダメです。
なぜそうなるのが。
自分だけが正しいと思っているのです。
自分ルール、マイルールを他者に押し付けているのです。
それが怒りを生みます。それがあなたをイラつかせます。
怒りの原因はマイルール、自己設定です。
自分の職場ルール設定、マイルールは万能ルールではありません。
互いに共存出来得る万能なルールを見出すべきです。
小さなルールは我です。
大きなルールは全てを受け入れ呑み込める海のような大我です。
一滴の水も相和すれば川となり湖となり海となります。
これはあなたに課された試練です。
自分んを小さなしずくのままにさせるのも自分。大きな川の流れにさせるのも自分です。
ルールとは法。
法とはさんずいに去ると記します。
さんずい とは 無限の水。
去るとは 流れに任せる ということです。
この意味が分かるまでマイルールを徹底排除するように。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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