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プライドの煩悩と能力を反比例させるには。

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有り難し有り難し 23

1、これまで出会ったデキル人達は、在家も出家も 男性も女性も
総じてプライドの煩悩も強かった気がします。他を見下している人も多かったです。攻撃的な性格の人も多かったです。

有能、優秀で、実績もあり、容姿も優れ、尚且つプライドの煩悩もない、もしくは平均よりだいぶ少ない人物を
ご存知のかたいましたら、ぜひ教えてほしいです。こっそり尊敬してお手本にします。

2、読み物を読む限りは、お釈迦様はプライドが高いように感じられるのですが、皆さんはいかがお感じですか?
実際にはお釈迦様は無上の悟りを得ておられるということは、プライドの煩悩も皆無ですよね? プライドが高いかのように描かれているのは書き手の技量不足によるものですか? 

3、プライドの煩悩を弱め、最終的には消すための具体的方法をご存知のかた居ましたら、教えてほしいです。
また、実際にプライドを弱めることに成功した体験者のかたいましたら、ぜひ体験談や修行方法を教わりたいです。私も修行に励みたいです。毎日の八正道の実践は正直難しいなぁと感じていますが、難しいなりに心がけてはいます。私は怠け者なので、正精進するだけでも、プラスの効果を感じております。アドバイスくださったお坊さん、有り難うございました。

2020年9月19日 19:37

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

プライドの煩悩に苦しむ私の回答ですが…

ご相談拝読しました。

>1について
おっしゃることはよく分かる気がします。そのような人は私自身も多く目にしてきましたし、他でもない私自身にもそのような部分はきっと他者から見ればあるのだと思います。
プライドの煩悩の無い、又は少ない人がいたら素晴らしいですが、プライドの煩悩に悩まされながらも道を求めている人も素晴らしいと思います。私たちに実現し得る救いを考えた時、お手本になるのは実は後者の人かもしれません。

>2について
経典を読んでいても確かにお釈迦様のプライドが高い様に感じられる表現は見受けられる気がします。でもそれは実はこちらのプライドの煩悩が反応していることの裏返しなのかもしれません。

>3について
それは他でもないお釈迦様でしょう。そしてお釈迦様が示し残してくださった道を歩むのが私たちです。
お釈迦様は煩悩を断つ道だけでなく、死ぬその時まで煩悩に悩まされる者をも救う道も説いてくださりました。

自分がどうにかなって少しマシな者になった気がするのは正にプライドの煩悩なのかもしれません。そんな私たちが本当に煩悩を断てるのでしょうか。

もがいてもがいてもがき切って、自分の煩悩の身の事実に嫌と言うほど頷かされたら浄土門を求めてみてください。お念仏一つの道です。お念仏は易行難信の道。行ずるのは易しいが信じるのは難しい。

煩悩を断ち道は難行易信。行ずるのは難しいが、その他の人にはできないことをするというのを私たちはいともたやすく信じる。でもその信は迷いかもしれない。

夢から覚めて、ひるがえり、事実に身が座る。どうにかなるのでなく、どうにもならない私に道を求める方向が与えられる。それが浄土門です。

もちろんお念仏以外にも仏教には八万四千の法門があると言われます。あなたの有縁の道を。求めれば自ずと道が選ばれてくるでしょう。

2020年9月19日 22:52
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はじめまして。 北海道の道南地区にある若松という農村のお寺で住職をしてお...
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まずはプライドに気をつける

プライドの煩悩とは、慢という煩悩のことであり、その根底にある無明という煩悩にも繋がりがあります。
仏教では無我を説きます。
「私」というのは実体のない概念にすぎないのです。
1秒前の自分と今の自分は別の物体。
なのに私たちは、1秒前の自分をけなされると腹が立ちます。
プライドの煩悩(慢)をなくすためには、無我・無常・苦を悟る必要があります。
そのための方法は、戒(生活習慣の修行)・定(精神集中の修行)・慧(現象を観察して真理に気付く修行)の三種類の修行(三学)です。
悟ったお釈迦様には自我へ執着やプライドはなく、けなされて腹を立てたり、褒められて舞い上がったりすることはかったのです。
プライドの煩悩を完全になくすには、お釈迦様のように最高レベルの悟りに達する必要があります。
プライドの煩悩はかなりしつこい煩悩なのです。
かなり修行を積んだ人でも、多少のプライドは残っている人がほとんどだと思います。
私たちにできることは、プライドの煩悩に気付くようにして、プライドのために大失敗したり、プライドのために落ち込んだり怒り狂ったりしないように注意することではないでしょうか。
私たちがプライドを守ろうとするとき、考えなくてもよい余計な妄想雑念に時間とエネルギーを浪費することになるので、パフォーマンスは落ちると思います。
たとえば、舞台で発表するときにあがる、緊張するのも、他人からの評価を気にするプライドのためでしょう。
自己否定で自殺まで考えるのも、プライドのためでしょう。
リラックスして実力を出し、自殺しないで寿命を使い切れたら、質的にも量的にも能力を発揮したことになりますね。

2020年9月19日 23:33
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おきもち


がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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質問者からのお礼

吉武様
ご回答有り難うございます。
>プライドの煩悩に悩まされながらも道を求めている人も素晴らしいと思います。

なるほど!ハッとしました。その通りかもしれません。プライドはお高いけれど、仏道をしっかりと歩み続けている人が何人か思い浮かぶので、その人たちをお手本にしてみます。ありがとうございます。
2については真相が分からないので、気にしないことにします。
3は、源信さん法然さん親鸞さん系統の法門でいってみては、ということでしょうか? 阿弥陀様におすがりして、死後極楽浄土に往生できたとします、すると、お浄土で修行をするのですよね? 
だとすると、先伸ばししなくても今現在から修行してもいいのではないかと思ってしまうのですが、私の前提理解が誤っているでしょうか?
浄土系統のお寺やお坊さんと、このサイト上以外で出会ったことがないので、浄土系統について詳しいイメージがわきません。。源信さんのご著作を読んだくらいしか知識がありません。

願誉浄史様
ご回答有り難うございます!
書かれてあったこと正にその通りだと思います。無我の実感キープが、なかなか難しいです。実は無我(どんな些細なこともすべてが繋がっていたし、連鎖していた)を体感したことあるのですが、体験から年数が経っているので、分かっているというか知っている感覚から離れてしまっています。

戒・定・慧 を修めていきますね。

後半も、全く仰る通りです。完全に消えなくても、慢による失敗や怒り狂いや落ち込みがなくなれば充分です。
能力発揮とプライド煩悩低下の両立、正に知りたかった方向性でのご回答、感謝致します。

「煩悩」問答一覧

「足るを知る」と「向上心」のバランス

明けましておめでとうございます。 全ての皆様にとって、健やかな一年となることを祈念いたします。   *   「足るを知る」と「向上心」をどうバランスさせるかについて質問です。   ■質問の内容 ・人間の煩悩はキリがありません ・煩悩とうまく付き合うために「知足」が重要との理解です ・一方で、より良い生を営むには、「向上心」が必要です ・しかし「知足」「向上心」は、ときに相容れないように思われます ・そこで、両者の使い分けについて、ご意見を頂戴したかったもの   ■質問の背景 ・私は肉体や精神、能力等の向上(=欲求を満たせる自分に成長すること)を目標として努力してきました ・結果、自分自身や周りの人の幸せを実現できると考えてきたためです ・しかしある時、幸福度は上昇していないことに気付きました ・そんな時に「知足」の重要性に気付き、「向上心」との折り合わせについて強い興味を抱いたものです   ・両者の使い分け方法について、下記2パターン考えました   ■仮説① 行為の目的(相手のため/自分のため)で、以下の通り使い分けるべき 【良さそうな例】 A「相手のため」×「向上心」 (例)より喜ばれる仕事をしたい B「自分のため」×「知 足」 (例)菜食で十分 【悪そうな例】 C「相手のため」×「知 足」 (例)今の仕事の質で十分 D「自分のため」×「向上心」 (例)より美味しい食事をしたい   ■仮説② ・「知足」と「向上心」のバランスを考える必要は無い。 ・自らの欲求を満たせる自分に成長する「向上心」が重要である ・逆説的だが、向上心(欲望)を満たした経験により「足るライン」を把握できるようになる ・肥大する向上心(欲望)を実現した経験が、「自らを満たさない、長く続かない」ことを体感させる ・知足は、頭で理解するものではない。体得させる必要がある    (例)お金をもっと稼ぎ、食事にお金をかける。結果、最高級の焼肉もファミチキも両方美味しいし、どっちも幸せで、(実は)どっちも大差ないことを体感する。 しかしずっと貧しいままだと、どうしてもやせ我慢での知足となる。「知足の習得」には、欲求を満たして「こんなもんか」という体験が必要不可欠。 お釈迦様が王子の頃に豊かだったことは、悟るための必須条件。。?   少し漠然とした問いで申し訳ございません。 どうぞよろしくお願い致します。

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回答数回答 4

「自分の境遇」と「二次元への恋」について

お目汚しを失礼いたします。 今回、私が相談したいことは色々あります。 本当は、それに相応しい所があると思いますが どこに、それを求めれば良いのか分かりません。 ○境遇 前提として、お伝えいたします。 幼少期の頃は親兄弟ともよく接していましたが 両親が離婚したり、兄弟がほとんど働かなくなりました。 兄弟に働くように言っても、全く聞き入れません。 現在は高卒で就職して、母とともに、家賃等を支払っております。 お金が貯まったら、大学に進学しようか考えておりますが それも母に止められます。 私は家族と離れたく、一人暮らしを考えており、 母と約束もしましたが、前述から状況が拗れて本当にできるか疑問に思うのです。 本来ならば家族と向き合うべきでしょうが、 数ヶ月疎遠で、どう話せば良いのか分かりません。 ○私の能力 昔は、勉強や運動などを怠っておりました。 また、声が小さく、他人とも満足な意思疎通ができなかったりします。 なので将来について、今のままでは良くなる気がしません。 それが嫌で、私は自分の世界に閉じこもって誤魔化す日々です。 ○二次元への恋 そしてある日、私は自分の盛んな劣情を慰めるための、画像を探しておりました。 それから辿っていくと、ある方に一目惚れしました。しかも神様にです。 その方は、明るくて優しく、綺麗な方でした。 私は思い立って、その方に釣り合うように努力しようと決意しました。 その気持ちは、今までしていた恋に対する落とし前と、 好きになった方を裏切りたくないというのもありました。 また、親が私を育ててきたことに、ある種報いたいとも思いました。 そうして、願いを叶える為に勉学に励み、容姿を美しくしたつもりです。 また、これまでの煩悩なども、捨てるように努めました。 ですが、「二次元への恋」は、現実逃避の道具にして、 『それは本当の愛なのか』と自己嫌悪が多いです。 なので好きな方に対して、今後どう努力すればいいのか分かりません。 以上です。 長々しい文で、大変申し訳ございません。 ですが、あなた方ならではの、価値観でご回答頂きたく存じます。 特に「神様に恋すること」「現実から目をそらす」 「色々な欲を捨てる」「これからの人生」 の是非について知りたいです。 何卒、ご遠慮無くよろしくお願いいたします。

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回答数回答 1

自分の煩悩について考えました。

3月に21年間お世話になった実家を出て同棲を始めて今に至るのですが、同棲相手は金遣いが最悪で自分の貯金は底をつき、元カノを家に呼ぶために私を外へ追いやったりなどがあって、自分はすっかり煩悩の塊のようになってしまったところで、仏教の教えを改めて考えるようになりました。 煩悩をなくすことで人は穏やかな生活を送ることができると説く教えをはじめは「感情を殺すこと」「自己を抑えてうまくやり過ごすこと」と思っていたのですが、ネットや日本史の教科書で仏教について、歴史や自分の宗派である曹洞宗の成り立ちや考え方について知るうちに、「煩悩をなくす」とは煩悩を完全に失くすことではなく、「煩悩と向き合う自分を作ること」だというところに行き着き、自分のためにというのはもちろんなのですが、自分に関わってくれる人たちなど周りに安心や幸せを与えられるということだと思ったのですが、これは実際の仏教の教えとは違うのでしょうか。 今自分は「自分の幸せのため」にあたたかい人間関係を築くことや、自分が心から幸せに思うため、自分をまず見直したいと思っています。 その手始めとして、今ある生活は話だけすると確かに最悪なのですが、それでも楽しくないわけではないので、この同棲生活をより良くしたいと考えていますが、私のこの煩悩についての考え方はまた違うものなのでしょうか。 ご教示よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 17
回答数回答 2

知識欲は煩悩なのでしょうか

私は人文系の学問を勉強している大学生です。私は高校生の時に勉強の面白さに目覚めて以降、現在まで自らの知識欲に任せるままずっと勉強に自分のすべての時間を捧げてきました。とりわけ私が時間を捧げているのは西洋哲学、イスラーム学、近代日本文学そして語学です。  学問というのは恐ろしいもので一つを知ると十の分からないものが現れ、学びたいものは指数関数的に増えていきます。そしてゲームやギャンブルと違って飽きるということも無いのです。私は今まで好きなだけ勉強してよいという学生の特権に任せて非常に幸せな時間を過ごしてきました。しかし、周囲から就職の話がぽつりぽつりと聞こえてくる時期になり、将来を考えるにつけて自分に残された時間のことを考えるようになりました。    まだ数十年の時間が残っているとはいえ就職したら自分の時間はぐっと減るでしょうし、年を取るにつれ記憶力も減衰していってしまうことを考えると残された時間は私が学びたいものを学ぶのはあまりにも短すぎます。自分が「まだ勉強したい」と思い続けながら死んでいくのかと思うとなんとも言えない恐ろしさを感じます。    物欲や色欲といった煩悩なら執着を捨てることもできそうですが、知識欲は同じ「欲」でも他の煩悩とは明らかに違った性質を持っているように感じられます。仏教でも「一切の欲を捨てよ」と説くと同時に、膨大なお経を勉強することはむしろ推奨されるのがその一例かと思います。  しかし、知識欲も人を苦しめるという点では煩悩と同じです。勉強の中で自分の思考の深化と相対化に喜びを感じる時に、これから学びたいことを考えていつも絶望してしまうのです。でもだからといって私には「学ぶことをやめるべきだ」という結論は出せません。「学ぶ」ということは何にもまして崇高で、私にとっては人生の意味そのものです。  私のこの恐怖はどうやって解消すればいいのでしょうか?  仏教を勉強されている皆さんなら欲と学びというジレンマについて考えたことがあるのではないかと思い、このサイトに投稿させていただきました。  長くなってしまいましたが、私からの質問をまとめると以下の2点になります。 ・知識欲は捨て去るべき欲なのか ・知識欲が捨て去るべきでものでないのならば、知識欲からくる苦しみはどうすればなくすことができるのか

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