瞋恚を克服したい
2年ほど前に「カタツムリの外見が苦手なのだが見た目でモノを判断するのはどうなんだ」という相談をして、「恨むほどでもないなら別に嫌いでもいいじゃない」といった旨の助言などを頂いたのですが、そのお陰なのか今では手で触れられる(寄生虫がたまについてるらしいので手は洗いますが)ほど克服してしまい、当時を思い返しては内心で驚いています。
ただ、自分の価値判断を省みる中で一つ気がかりな事を見つけて、その事が少々悩みの種になっています。
というのも、これまで蛇蝎の如く嫌っていたカタツムリを克服した事で心持ちに相当の余裕は出来たのですが、自身が本来したかったことはいわゆる瞋恚の克服であり、しかもカタツムリに関しては貝類の図鑑を眺めたりしてどうしたら克服できるか考えあぐねていたはずがいつのまにか慣れてしまったこともあり、実は本当の問題が解決していないのではないか…と思い悩んでいるのです。
浅学の身で大変僭越ではありますが、私の知る限り悟りというのは本来その実利を全く求めずに明鏡止水の心持ちで行を繰り返す事であると聞きます。
ですが、自分はたまにカタツムリの画像を見ては「どうすれば好きになれるかなぁ」と欲望まみれでひとりごちていただけで具体的なことは殆ど何もやってなかったと思うのです。
今は不便こそしていないものの、もし克服したと思った心持ちが来年変わったら…もし再び嫌いはじめたら…と思ってしまうとゾッとします。
それ故、この心持ちが偶然で終わる前に揺るがなくなるような方法を教えて頂きたいのです。
これは、嫌いなものを増やさない為だけではありません。
自身の身に合わないと思ったものを排斥することに執着しない為でもあります。
これは拙い持論ではありますが、人は好きな物事を愛で続けるより、嫌いな物事を憎み、気がすむまで叩きのめすことにより快感を感じる傾向にあると思っています。
しかし、排斥することに味を占めると終わらない闘争の火種になりますし、何より自身の不満不幸に執着し続け、目の前の満足や幸福を取りこぼす事が自分には一番の災厄だと思います。
物事の全てを愛でるには自分はちっぽけではありますが、せめて恨むなら「恨む」という事そのものだけに留めておきたいと思うのです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
嫌いも好きも表裏一体
苦しみの根源は
そもそも好き嫌いという分別から生まれます
好きで物事に執着すれば
いつか必ず自分の予想を裏切り
必ずしや怒りや悲しみを生み出します
だから綺麗なものを愛でるのも
汚いものを嫌うのも
本質的には変わらないのです
時間の問題です
嫌いなものを叩きのめす時にはアドレナリンやドーパミンが出て
強い快楽が生まれます
相手がボロボロでも知ったこっちゃない
自分が勝てばそれで良い超利己的状態ですが、
後に必ず孤独と自己嫌悪が襲います
それは麻薬が切れた状態ですね
こうして
わかってて何度も怒るのは麻薬中毒の状態ですね
そう、怒ってばかりの人は自分でもとめられない麻薬中毒なのです
人を助けたり
助け合ったり
何かをあげたり
してあげたり
優しくお声をかけてあげたり
こういう行為に強烈な脳内麻薬が分泌されることはありません
これは自分という存在というより
他人の利を重んじる利他業といい
これもまた悟りの道には欠かせない修行でございます
色々理由を付けて恨みという火種を心中に住まわせる事を許すなら
いつか身を焼く大火事になる日を覚悟なさる事ですね
心に置くことは良きも悪きもいつか行動になって現れます
合掌
質問者からのお礼
長いことお礼のコメントが出来なくて申し訳ありません。
今日に至るまで、朝に10分ほどの瞑想をする、字を綺麗に書くように意識する、雲の形を要らない紙に落書きする、など様々な事に取り組み続けています。
これらの試みは全て、お坊様がおっしゃられた身を焼く大火事の元をしっかり認識するためにやってきた事です。
現在、心の火種は熾火となってなよやかな煙を出すまでに留まっていますが、気まぐれな風一つで再び燃え盛ることもあると思っています。
これからも、見守り続ける事にします。
抽象的なお言葉だった為長きに渡り返信に戸惑い、二の足を踏み続けてしまいましたが、貴重な助言を頂きありがとうございました。