宗教と結婚
5年付き合っている彼がいて結婚を考えていました。付き合った当初、彼が宗教をやっていることを知らされました。私も宗教に偏見があったので宗教やっている人とはお付き合いできないとお断りしたのですが、宗教はやめるから付き合ってほしい。とのことで信じてお付き合いを始めました。彼の家族も宗教活動に反対だったので喜んでました。
彼も3年程活度はしていなかったのですが、1年程前から宗教活動を始めていたのです。約束と違うので何度も話し合いました。だけど、彼はすでに洗脳されており幸せになるには仏法が必要だ。私を仏法がないと幸せにできない。と言ったきりです。話し合いを重ね、私が宗教を試したら凄さがわかる。分からなかったら、やめるとのことになりました。試してみて宗教の凄さが私には分からなかったのでやめよう。と言ったら私の信心が足りないだけだとことでやめませんでした。彼のやっている宗教はネットでも悪いことばかり書いてあり心配で別れるのにも別れられません。だけど、自分の年齢など考えたら彼に費やすのではなく新たに彼を見つけるべきでしょうか?
宗教と結婚
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まるごと受け入れるか否か、の二択
こんにちは、初めまして。
「新たに彼を見つけるべきでしょうか」とのお尋ねです。
私は一私見を述べるので、参考になれば決断に反映して下さい
彼との今後を考えるなら、その「宗教」と彼は一体のものとして両方受け入れるという覚悟が必要だと思います。つまり、彼を選んで「宗教」は受け入れない、ということは出来ないのだろうと思います。それは、あなたもよくお分かりのことかと思います。
私は、具体的にその宗教を知らないので「洗脳」とまでは言いません。しかし、彼にとって「幸せになるには仏法が必要だ」というのは、確信と言えるほど強固になっていると考えられます。
宗教一般は、その教義ごとに独自の理論があり、現在の世或いは人をその理論で判断しています。だから、あなたがその「宗教」をどれだけ受け入れがたいと彼に表明しても、それはその理論に対する理解が足りないからだ、という断定に必ず行き着きます。よって、「宗教」という点において、彼があなたを説得することはあっても、その逆が起こり得る可能性は極めて低いと思います。
「試してみて宗教の凄さが私には分からなかったのでやめよう」とあなたが言ったにも関わらず、彼氏さんはあなたの「の信心が足りないだけだ」と結論づけた。そう、このように彼の判断は常にその「宗教」の理論からあなたを説得するという方向にしか働いていない一例でしょう。
「信心」が足りないから、もっと信じろというのはよくある宗教の形態です。この理屈では、より上位に立つその宗教ごとの聖職者、或いは先輩がその「信心」を判断出来るという意味で立場が上になります。その意味で、彼氏さんとあなたの今後を考えれば、対等な横の関係というより、当面は上下関係になってしまう可能性があります。その意味でも、対等なパートナー関係を築く上ではマイナスな要素になります(補足:もちろん、そのような「信心」ではない宗教、仏教もあります:ex浄土真宗)。
上記のことを理解した上で、「宗教」と彼をまるごと受け入れるか、受け入れないかの二択しかないと思います。
カルト対策の専門家に相談してみては?
その宗教は
評判の良くない宗教なのですね。
彼のご家族も反対しているんですね。
そこまで心配なら
専門家に相談してみてください。
ご参考までに。http://www.jscpr.org/
こういう問題ですから
別れても仕方がないとも思います。
仏さまの慈悲は日常そのもの
ご質問拝読いたしました。
お辛いですね。
信仰しているご本人は、
幸せなのかもしれませんが、
側からすると、
強い違和感を感じてしまう。
仏さまのご慈悲とは、
日常そのものだと思うのです。
何か特別なものではなく、
彼が言うところの、
凄い!
ものではなく、
日々の生活に、
幸せや暖かさを感じる、
それが仏さまの慈悲だと、
思いますよ。
5年付き合っていらっしゃって、
これから人生を
一緒に歩こうという時に
また、そちらの道に、
彼が入ってしまわれた。
心の隙間に、
入り込まれた感じですね。
彼はこのことを除き、
いい方だと思います。
ただ、
この点だけが、
お互いに邂逅できないですよね。
分かち合いないですよ。
付かず離れず、
静観されたらどうでしょうか?
思想信条や宗教は
周りがどんなに言っても、
なかなか改まるものでは、
ございません。
少し距離を置きながら、
静観されたらどうですか?
二択ではなく、
あなた専一になるまで、
結婚はしないが、
お付き合いはする。
もうしばらく様子を
見ましょう。
お幸せを祈ります。
仏教の信とは
まーさま
信仰に関して、仏教においては「信じれば救われる」という図式ではなく、自ら自身において、仏様の教え(仏法)を実践していくことが大切なことになります。「自灯明・法灯明」。
では、仏教における「信」は何かと申しましたら、教えの持つ力、効果への信頼ということになります。
その信頼を醸成していくのが仏道過程の一つにもなります。
ですから、その教えの一つ一つを慎重に吟味して、そしてしっかりと納得した上にて実践していく、その「納得」を「信頼」の根拠としていかなければならないのであります。
「師の教えを、ただ尊敬だけをもって受け入れるべきではなく、金細工師が、その扱っている金が本物か偽物か、その金を焼いて、切って、磨くことをもって慎重に吟味するように、そのようにして師の教えも受け入れていくべきである」ということであります。
実際に試してみたところ、納得、得心できなかったのならば、やはり受け入れる必要はないでしょう。
また、仏教は世俗的な「幸せ」が目的としてあるわけではありません。
仏法を実践していけば付随的に世俗の幸せも得られることはもちろんありますが、「世俗的な幸せを得るために仏法が必要」と言えば、それは世俗的な見返りをどこか期待しての煩悩であり、その時点で仏法の実践からは遠ざかってしまうものになります。
世俗的な幸せ、つまり、世間八法(利得、損失、称賛、非難、誉れ、誹謗、楽、苦)を離れるためにあるのが仏法でもあります。
もし、無理でなければ、まだ相手を想われるお気持ちがおありであるのであれば、間違った仏法を教えられてしまっていることをお伝えして改心を促して頂けましたら有り難いことでございます。
川口英俊 合掌