幸せを望んでいいのか
ご覧頂きありがとうございます。私は小中学校で色々な人に嫌な思いををさせてきました。自分の醜い欲を満たすだけのために嘘もつきましたし、私の言動で傷ついた人もいると思います。離れてからそのまま謝れていない人もいます。
振り返れば、人は好きなのに表現が下手だったり、寂しさや人からの期待に応えられないことで見放されることへの恐怖感、家庭の状況など色々なストレスだったりを優しくしてくれる人に馬鹿な方法でぶつけていたなと思います。弱いくせにくだらない見栄もあり誰にも相談できず、自分で消化もできない結果人にぶつけていた最低な人だと思います。
もうしないと決意をしていても思い出すと落ち込んで情けなくて、色々なことが手につかなくなります。まさに今です。もう毎年の恒例で、きっとこの先もずっとそうだろうと覚悟していますし、自業自得なので仕方の無いことだと思います。
今私は医療職を目指しています。成人し色々な方と関わり人の優しさや幸せについてのこと、社会問題にも興味が湧いてどうすれば周りが幸せになれるのか考えたり人と話すようにもなりました。実際周りのために素直に頑張ることが今とても楽しいです。昔の自分に比べたら今の自分のほうがずっと好きです。人にも恵まれて幸せだと思います。今は驚くほど見栄もなくなった気がします。
でもそう考えている自分が本当の自分なのかわからなくなる時があります。昔の自分と行動があまりにも今と違う気がして怖いんです。自分が今持っている考えや行動に賞賛や感謝をされたり、優しいね、強いねと言われる時、昔の自分はあんなだったくせに私は何言ってるんだろう、こんな充実してていいのかな、と思います。話をしているときは自分の考えとして話し、行動しているのに人を騙してるのではないかと感じるのです。
いつかの先生が悪いことをしたらそれは心を黒く塗りつぶし消えないと言っていたことを度々思い出します。それでしたらきっと私はもう小中学校の時点で心は真っ黒です。そんな私が人の身体や心を支える仕事を目指したり、人の幸せについて考えて発言していいのかなと思います。嫌なことをされた人はしてきた人に見えないところで苦しんで欲しいと思うともよく聞きますし、今までしてきた過ちを考えるとそんな資格あるのかなという気持ちです。
これ以上の幸せを望んで頑張ってもいいのですか?
長文乱文申し訳ありません。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
過去のことがあるから今があるのです。
ほほほさんのご悩みお察し申し上げます。
ほほほさんのお話を読んでいたら光の三原色を思い出しました。
赤と青ではピンク色、赤と緑では黄色、青と緑で空色になります。
そして赤、緑、青の三色が混ざりあうことで白色になります。
過去の様々な経験がなければ、今のほほほさんの価値観や考え方は生まれてこないのです。たしかに過去のことを思い出せば、恥ずかしいことや苦い経験もあったかもしれませんが、それがあったからこそのことなのです。
黒色で塗りつぶす必要もなく、むしろそんなことはできないのです。
ゆえに、今考えていること、思っていることに自信を持って進んでください。
そして、多くの人たちの為に頑張ってください。
そして、多くの人と関わっていく内に、過去の自分を思い出すこともあるでしょう。その体験を通じて解消されていくこともあるのです。
これからが、本領発揮ですの、常に前を向いて進んでください。
質問者からのお礼
鈴木海祥様
温かいお言葉をありがとうございます。どうも自分の中で先生に言われた黒色の話が強く残っていて、もうどのようにも変われない、所詮今の自分は嘘の上塗りではないかと心のどこかでずっと思っていた気がします。ですが光の三原色のような捉え方もあるんだととても感動しました。自分が過去に起こしてきた過ちや人を傷つけてきたことは決して良いことではなく綺麗なものではありませんが、せめてそれらを反省した上で経験として受け入れ、自分の価値観や考えをさらに深めて良い方向へ進んでいきたいと改めて思うことが出来ました。頑張ります。読みづらい文章にもかかわらず素敵な回答を下さりありがとうございました。