生きていることに後ろめたさを感じます
はじめて質問投稿します。
4年前に祖母が亡くなり、おばあちゃんっこだった私は当時大変悲しみました。しかし同時に、そのころから自分が生きていることに後ろめたさを感じるようになったのです。
祖母の亡くなる数年は、介護で本人だけでなく家族もしんどい思いがありました。かくいう私も、あれだけ育ててよくしてもらった祖母に対して苛立ったぞんざいにしたりしてしまった節があります。その後祖母が亡くなり、自分の今までの行いをひどく後悔しました。祖母は自分の楽しみも犠牲にして私を育ててくれたのに、挙句病気で苦しみ死んでしまった、そんな彼女に私はなんてひどい対応をしたのか、もっと優しくはできなかったのかと以来思ってやみません。数年たち、社会人になりましたがあまり仕事は芳しくなく、ここまで育ててくれた先人に顔向けができないとさえ思います。恩を受けるだけ受けてこのざまと思うと生きていることに申し訳なく思います。
こんな私はこれからどんな心でいることが正解なのでしょうか。さらにさもしくも、自分の行ったことが将来自分に降りかかるのに日々おびえています。どうかお智慧をお貸し願えませんでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
『善きかな、善きかな』
はじめまして、浦上と申します。
「どんな気持ちでいることが正解」かは私などに言えるはずもなく、一人ひとりが抱えていかなくてはならない事なのだと思います。
仏典に、父王を殺して王位に着いたアジャセ王子の物語があります。
アジャセ王子はやがて自分の犯した罪に恐れおののき、重い病にかかります。
ご機嫌とりの大臣たちは「気にするな」と言いますが、アジャセの病は良くなりません。
しかし医師のギバは、自らの罪を悔い嘆くアジャセに表題の『善きかな、善きかな』という言葉で応えます。
少し意訳をしますが…「悪いことをしてしまうことは、生きていれば必ずあります。しかしその時、慚愧の念を起こすことが尊いことなのです。慚愧とは心の底からの深い反省のことです。慚愧をしない者は人とは言えず、いまあなたは慚愧しています。この慚愧が、あなたを人としての成長に導いてくれるでしょう。」
長く患った後に亡くなった方の家族は、hayabusa2002さんのような苦しみを抱えることが、ままあるようです。しかしそれは、あなたにとって大切な苦しみです。
ごまかすことも忘れることもなく、抱えていって下さい。そしてその苦しみから何かを学びとった時、まさにお祖母さんが仏さまとなって働いて下さっているのだと、私は思います。
初めまして井上広法と申します。
お祖母さまに恩返しもできず、疎ましい気持ちを抱きながらお祖母さまの最後をむかえてしまい、今も生きることに後ろめたさをお感じになるとのことですが、その様なお気持ちになるhayabusa2002さんの心の純粋さを感じてしまいます。きっと美しい素直な心の持ち主であるが故にこんなにも悩まれてしまうのではないかとお察しします。
さて、ご供養のお話をさせてください。
ご供養というと、お経を読んだり、お念仏を称えたり、お花やお線香を手向けたりといったことを想像されると思います。
もちろんこれらも大切なご供養の一つです。
お祖母さまはいつもあの世からhayabusa2002さんのことを気にかけています。自分のせいで大切なお孫さんが苦しんでると感じて、辛い気持ちでいるかもしれません。
「供養」という字を調べてみると「その人に仕える」という意味もあるそうです。言い方を変えれば「その人にとって何かをしてあげること」です。
お祖母さまが喜ぶことをすることがご供養になります。
もしあなたが笑顔で毎日を送ったら、あの世のお祖母さまも笑顔になります。
もうhayabusa2002さんは、十分すぎるほど苦しんだはずです。
これからあなたがどう生きるかが、これまでを決めます。
もう後悔するのはやめて、顔をあげ明日にむかっていいんですよ。
hayabusa2002 様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えとなります。
お祖母様が今でも生きておられたならば、例えいかなることであっても決してあなたを悪く思ったりするはずはなく、いつでもあなたのことを愛し、心配し、見守っておられることであろうかと存じます。それはきっと亡くなられてからも変わらないことでしょう。今のお苦しみは、ご自身にて作り出してしまわれているところが大きくあり、その後悔や負い目にとらわれている中において、現状の自分の立場・境涯とやや重なってしまうところがあるように思われて、お苦しみであるのではないかと存じます。そのようにお苦しみになられておられれば、きっとお祖母様はお悲しみになられることであるかと存じます。
とにかく、生かされて生きてこれたこと、お祖母様も含めて育み・恵み・愛情を与えて頂いた全ての者たちへの感謝の念、次に報恩の念を思い起こせたならば、お抱えであるお苦しみはきっと和らぎへと向かっていくことになるであろうかと存じます。
仏教には「空と縁起」という重要な法理がございます。「空」という「智慧」を理解することによって、執着心やとらわれの心を離し、そして、縁起の理解により、感謝・報恩・慈悲の念を起こして善徳行に取り組むということが大切なこととなります。既にお気づきであると思われる感謝と報恩の念を起こすことは十分可能であるかと存じます。その対象を更には全ての迷い苦しみある一切衆生へと及ぼすことが仏教において重要となりますが、その前段階の大切な気づきのところに今おられるのではないかと存じます。
「空」の理解では、今抱えておられる苦しみ、後悔や負い目には何らとして実体が無く(実体がないとはいえども、ただそれだけの理解で苦しみが無くなるわけではありません。確かに苦しみはありますが、それは)、己が作り出したる妄分別によるとらわれに過ぎず、もちろん永遠に続くようなものではありませんし、これからのご自身の様々な「縁」における所作により、いかようにも変化し得ていくものであります。この度の気づきを活かして、これから少しでも感謝の念を深めつつ、お祖母様にできなかった報恩を周りの皆様へ向けた善徳の実践にてお積みになられることが大切になるかと存じております。
お苦しみが少しなりとも和らぐことに繋がりましたら幸いでございます。
川口英俊 合掌
隣人
hayabusa2002さん、こんにちは。
だいぶ月日が経ちますが、いかがお過ごしでしょうか。
人間というのは、物語をつくる生きものである・・と誰かが言っていました。
そして、語る生きものでもあると。
hayabusa2002さんも、質問から半年。どのような物語をつくっているでしょうか?その物語を誰かに話しているでしょうか?
おばあさんも、物語をあなたに語っていたようです。
たとえば認知症であったならば、ふと覚醒するタイミングがあったかもしれません。心と体の半分をアチラ側におきながら、あなたのために半分はコチラ側に置いていたのでしょう。
しかしもうアチラ側に行ってしまいました。もう意思疎通を図ることは出来ないでしょう。ただ、この今も見守ってくれている、と考えてみるとどうでしょうか。
「顔向けできないと言っている。このざまか。仕事が芳しくないようだなあ。悔やんでいるなぁ。」
と、先祖がそんな状況を喜んでいる、と考えられるでしょうか?
「しっかりやんなよ。頑張りなよ。元気でいろよー」
と励ましてくれているはずです。
人生とは山あり谷ありです。
山に登れば良い景色。谷底は暗くてアーイヤダ。でも、下ったら、のぼるだけです。
また、登ることも降りることも大変なことです。一歩一歩、気をつけて。
さらに言えば、登る山道、降りる山道、頂上、谷間、それぞれに“善きかな”の景色です。
いてほしいときに、彼(女)らはいません。
置き土産として、あなたに「苦しめる問題」を残していった・・・わけではないのです。
隣人として、あなたのそばにいて、問題をともに解かんとしています。どうしたらいいのか・・と悩みhasunohaへと相談にいらっしゃいました。リアルでも様々に活動しているかと存じます。そういうことです。
詩人ライナー・マリア・リルケの言葉です。
「死者は自分の始めていたさまざまのことを、自分のあとに生き残った人々に、もしこの人々がいくらかでも内面的に結ばれ合っていたとしたら、続けてやりとげてくれる課題としてゆだねるのではないでしょうか。」
おばあさんとは、内面的に結ばれていたはずです。だから苦しい。
しかし、だからこそ、やりとげてくれる課題であり、遺族の証明でもあると私は思います。
隣人を感じませんでしょうか?