私の信仰について
今回は非常に個人的な悩みとなります。
私は最近、仏教について調べたり、考えたりして、一種の信仰心を持つようになりました。(他人には一切信仰を公言してません)他人が悲惨な目にあったニュースを見聞きしたり、電車の人身事故があった時などは、心の中で南無阿弥陀と唱えるようにしてます。(宗派とかはよくわからないので、とにかく心で唱えるようにしてます)ただ、この教えはどの宗派かはわかりませんが、南無阿弥陀を唱えると、仏様が極楽浄土へ連れて行ってくれるという話を聞いたので、正直、他人のためではなく、唱えることにより自分が死後、安らかな場所に行けるように唱えていると考えてしまいます。
そこで2つ質問があります。
1 心の中で南無阿弥陀と唱えるだけでも良いことですか?また、他人に亡くなった方に対して唱えることは良いことなのでしょうか?
2前述したように、南無阿弥陀と唱えることは、自分が死後安らかに過ごせるようになるためであり、それは他人の為ではないという考えが少なからず自分の中にあります。純粋に他人の為に仏教に信仰心を持つにはどうすれば良いのでしょうか?
この先は質問と関係無く、ただhasunohaのお坊さんへの感謝と自身の信仰に関する話です。
いつも悩みを聴いてくださり本当にありがとうございます。1人では考えきれない事を今までお坊さん方は真剣にアドバイスしてくださり、以前あった私の死にたいという気持ちも随分と楽になりました。本当にありがとうございます。また、このサイトがきっかけで、宗教とは非常に遠かった私の中に信仰心が生まれました。正直、極楽浄土や地獄、仏様など、目に見えない世界に関しては半信半疑です。しかし、過去の仏陀やお坊さん、そして現在のお坊さんなどが人々の為に幸せや平穏を願った。そして今も願っているという事実は変わりません。そしてその事実が現実に対して言いようのない不安に駆られていた私にとって光です。誰かの幸せの願う心の存在こそ私の救いです。皆さんの考える仏教への信仰とは全く違う形かもしれませんが、私は仏教をこのように信仰してます。
そしてこれからも、お坊さんのように誰かの幸せを願う人でありたいです。質問とは関係はありませんが、この場を借りてお礼申し上げます。ありがとうございました。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
ご信心に基づいてこそのお念仏
こんにちは。
以前にもご縁がありましたね。
先ずは、回答僧並びにハスノハへの謝意を有難うございます。
とても励みになります。
このハスノハで回答する全ての諸師は、あなたの言われている通り「誰かの幸せの願う心」に突き動かれているお方たちばかりです。私も、今後ともその末席に名を連ねていきたいと思っております。あなたも、よかったらこれからもご一緒ください。
さて、ご質問への回答です。
1 心の中で南無阿弥陀と唱えるだけでも良いことですか?また、他人に亡くなった方に対して唱えることは良いことなのでしょうか?
所謂、お念仏をする宗派ごとの違いがありますが、私は浄土真宗方面から。
結論から簡潔に言いますと、「唱えるだけ」では不足です。
そのお念仏が信心に基づいたお念仏であるかどうか、念仏よりもむしろご信心が極楽浄土への往生の分かれ目です。
阿弥陀如来様の必ず救うまかせよ(南無せよ)、との仰せを聞いて私の側がおまかせします(南無いたします)という心が信心です。これは、日頃からその「必ず救うまかせよ」のお心を聞く(法話の聴聞)が不可欠です。聴聞を日ごろしていない上での念仏は、信心に基づいていない念仏である可能性が高いでしょう。
また、親鸞聖人は『歎異抄』のなかで、父母のためにお念仏をとなえることはない、と言われています。このことから、「他人に」対する念仏は浄土真宗ではありません。なぜなら、念仏は信心に基づいた阿弥陀様への感謝だからです。他人、父母含めて全ての人を必ず浄土へとお誓いくださる阿弥陀様への感謝です。
2 南無阿弥陀と唱えることは、自分が死後安らかに過ごせるようになるためであり、それは他人の為ではないという考えが少なからず自分の中にあります。純粋に他人の為に仏教に信仰心を持つにはどうすれば良いのでしょうか?
「純粋に他人の為に」ということは、煩悩という自己中心性からものを考える人間から言えば現実的ではありません。仏教は、自利利他という自他が共に幸せになることを願う教えですから。
浄土真宗から言えば、先に述べましたが自他共にお浄土へお救いくださる南無阿弥陀佛のお心に既に、自利利他が内包されていると考えます。
ご参考になれば。
「引導」・「ポア」
横山さま
拙生も、災害や事故、戦争等の報道があった時や、例えば、近くの警察署を通る際に事故数表示のところで死亡者があれば、南無阿弥陀仏、あるいは阿弥陀如来ご真言をお唱えし、また、お地蔵様が道すがらあれば、南無地蔵菩薩、あるいは、地蔵菩薩ご真言などをお唱えしております。
その方々への後生の善き赴きへと向けてのほんの少しでもできる追善回向の一つとして有り難いことでございます。
これはほんの少しの追善回向でありますが、正式に、本格的に行うのが、葬儀というものになります。
葬儀の儀軌において「引導」、「導引」という言葉がありますように、仏さまの世界へと亡くなられた方を引き導くということであります。
チベット仏教では、「ポア」(ポワとも)(仏さまの世界へ遷移させる)と申します。
この「ポア」はオウム真理教の事件にて、すっかりと悪い言葉のように印象付けられてしまっていますが、本来の意味合いは、「死者の意識を浄土へと送る」ということになり、葬儀における「引導」と同様となります。
いずれにしても、死者のより善い赴きのためとなる(回向する)こちら側における追善、功徳の行いも必要なものとなります。
何らか善き行いに努めて、それを追善供養の一つとするのであります。
では、なぜ、「南無〇〇」とお唱えするだけでも(例え僅かながらにでも)功徳、追善、供養とすることができるのか、これは非常に難しい理論が説明する上で必要となります。ここでは字数の関係上、難しいものであります。
チベット密教では、無上瑜伽タントラ、中国・日本仏教では、大乗起信論、特にその註釈書である釈摩訶衍論を学んでいくと理解が及ぶところとなって参ります。
是非、また学びを進められて頂ければ有り難いです。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
ご回答ありがとうございます。お二方から回答を頂いて長い時間が経ちましたが、宗派についてはなかなか決めることができませんでした。一度、お寺の方に行ってみようと思いましたが、コロナ禍の影響もあり断念致しました。
ですが、私のほんの小さな信仰心が少し勇気をくれる場面がありました。ですので、これからも時間を掛けて、この信仰心が果たしてどのようなものなのかを考え続けたいと思います。
ありがとうございました。