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仏様は人間をどう見ている?

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はじめまして。仏教について疑問を持っているのでお答えいただけると助かります。その過程でキリスト教の例を出すことをお許しください。

 キリスト教ではイエス様を地上にお与えになったほどに地上に生きるものを神は愛しており、自分の御姿に似せて人間をおつくりになるほどに人を愛している、と習います。その神の愛こそがキリスト者の信仰のよりどころだと思います。

 一方で仏教は悟りを開くことが目的であると聞きました。悟りを開くということと仏様を敬い信仰するということがいまいちつながりません。また仏様は人間をどう見ているのでしょうか?キリスト者にとっての神様と同様に、愛していくださるのですか。仏様を信仰する人にとっての心のよりどころとは何なのでしょうか?

 何分仏教について全くわかっていないため、見当違いの質問を多くしてしまいごめんなさい。ほんの少しでも回答をいただけると助かります。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

仏教とは「仏になる為の教え」と「仏が説いた教え」

はじめまして
質問拝読しました
まず、回答とは脱線しますが、信仰をお持ちなのは素敵な事だと思います。
ご自身の信仰は財産ですから大切になさってください。

では回答させて頂きます。
まず、仏教は「仏になる為の教え」と「仏が説いた教え」という二つの側面があります。

仏(如来、覚者)になる為の教えの中に仏(如来、覚者)になる為の手段が説かれておます。
戒律に即して瞑想と共に生活し、煩悩を滅して悟りに近づいていくのもその一つです。

それらの中に大乗仏教に説かれる教えがあります。それは誓願、誓いに基づく菩薩行です。それは他人を救う修行です。
それが仏、菩薩が我々人間を救ってくださるという信仰に繋がっていきます。

また、仏(如来、覚者)の教えを慈悲と智慧という二面から見る事もできます。

この慈悲が仏様が我々人間に対して慈しみ、慈愛を持って接してくださり、抜苦与楽をもたらしてくださります。

例えば、観音経(妙子法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五)というお経の偈文(詩のようなもの)には「慈眼視衆生(じげんじしゅじょう)」というフレーズが出てきます。
観音さま(観世音菩薩)、仏さまは慈悲の眼差しで我々衆生を見守ってくださっております。
そして、我々も仏様に倣いそれを実践することが大切とされています。

仏教徒にとっての心の拠り所は人それぞれです。所依の経典や護持する経典、またそこに説かれ登場する仏菩薩明王(様々な仏さま)、或いは先師、先達、開祖、宗祖と呼ばれる先駆者たる僧侶や長老や師匠の方もおられます。身近な尊敬する仏教徒、仏教者、お寺の住職やお坊さんが心の拠り所の方もおられるかもしれません。
ですが、それは全て仏法(ダルマ、仏の教え、真理)に行き着きます。

文面では上手く伝わるか怪しいですが、疑問の解消のお役に立てれば幸いです。

合掌

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おきもち

慈蔵房(氵門亠广)
未だ愚迷凡夫の身ではありますが、皆様の一助になるようなお答えができれば幸い...
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「ご覧にならない仕方でご覧になる」

祈織さま

「仏様は人間をどう見ている?」

実は何気に凄い質問なのです。hasunoha史上最高レベルと言っても過言ではありません。。

いや、質問は平等にみないといけませんから、こんなことを言ってはいけませんね。

まず、仏様・如来は、二つの身体を成就しておられます。法身と色身。法身は真理のお身体、色身は、衆生を救済するためのお身体。

法身だけでは衆生は救えません。色身が具わってこそ衆生を救済することができます。

ですから、仏様・如来であるということは、衆生を救済することを願われて悟りを開かれており、そのため、衆生を救済するためのお身体をお持ちであり、慈蔵房さんのおっしゃられますように、慈悲の御心で私たちのことを見て下さっておいでであるということでございます。

では、実際には、どのように見ておいでであるのかと申しましたら、「ご覧にならない仕方でご覧になる」という表現となります。

まず如来の意識(私たちの意識とは全く違うレベルの意識となります)には、全て真理(の空性)しか映えておりません。モノコト・事象、何をご覧になられようが全て空性の真理の面しか映えておられないのであります。(如実知)

例えば、私をご覧になられたとしても、私における空性の面しか映えられないのであります。もちろん、誰をご覧になられても実はそうなのであります。

では、空性しかご覧になられていない如来が、どうして、私たちを救うはたらきができるのかと申しましたら、ご自身も悟られる前に迷い苦しみがあられた時における経験からと、実際に私たちがどのように世界を見ているのかということを私たちの(無明・煩悩によって世界を捉えている)意識をご覧になられて(いわゆる神通力)、その迷い苦しみのありようを個別具体に捉えられているのであります。(如量知)

そして、善巧方便、つまり、対機的にお救いをお示し下さるのであります。

そのようにして、私たちをご覧になられているありようを「ご覧にならない仕方でご覧になる」と一見矛盾した表現で説明するのであります。

難しいことになりますが、是非、これからも仏教を学び進めて下さいましたら有り難いです。

川口英俊 合掌

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おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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一考察

私は難しい教学用語は使いませんので、あらかじめご了承ください。

仏様(神様も)は尊き存在であります。しかし、実は私たちも尊き存在である(ただし忘れている状態)ゆえに、すべてのことは、私たちは創造する自由があります。
どのように生きるのか、目の前に起きる現象にどのように対処するのかも、個々に委ねられています。
仏様(神様)が判断したり操作することはありません。何故なら、自分自身がそうであるからです。悟りを得るためにではなく(もちろん生きている為のサポートとなる教えはあります)自分が何者であるかを思い出すことかと思います。

お経の中に、お釈迦様が誕生された理由は、私たちに「ただ一つの目的、唯一つになすべきことのために」とあります。それは、私たちに仏様(神様)の智慧を開かしめ、示し、悟らせ、その道を歩むためとあります。
言い換えれば、私たちに仏様(神様)と同等の尊き存在でなければ無理です。
仏教では、よく仏子(ぶっし)と表現していますが、それはいかなる人類も同等であります。どんな宗教を信じていようがです。(迷惑でしょうけど)それゆえすべて仏様(神様)の元では平等と言えましょう。
そのことを信じていることが祈りに通じ、心の拠り所になっていると、私は思います。当然ながら説明不足はお許しください。

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有り難し
おきもち

日蓮宗のお寺で、名古屋市南区にあります。 ”お寺は生きている人のためにも...
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質問者からのお礼

 お礼が遅くなり申し訳ございません。人間も仏様と同じように尊い存在であるという考えや、仏教には二つの側面が存在していることなど、思いもよらないような考え方を知ることができてとてもためになりました。
 神様と同じように仏様もまた人間を慈しんでくださると考えても間違いというわけではないのですね。なんだか安心しました。これから自分が何によって支えられ生きていくかはわかりませんが、仏様が導いてくださる道もあることを感じました。本当にお答えいただきありがとうございます。

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