強迫観念
私は神様を侮辱してしまいます。私は過去に神様に怒られたことがあります。そこから鳥居の外に出てからも神様は心の中を見られている、と意識すると、家の中にいる時に神様を意識して毎日話しかけてしまいます。さらに侮辱してはいけない」「馬鹿にしてはいけない」と思っています。
しかし神様を前にすると「〜思っちゃいけない」「〜馬鹿にしてはいけない」と思ってはいけない事を思ってしまいます。思ってはいけない事が自動的に浮かんできたり、「もし、言ったらどうしよう」「どうしよう、どうしよう、どうしよう」「言ってはいけない!!!」と強く思い、結果的に言ってしまいます。
辛いです。どうすれば神仏を意識せずに生活して、見下さずに敬う事が出来ますでしょうか?
仏道の方にこのような質問、恥を忍んで質問させていただきます。
お返事早く下さると幸いです。
強迫観念
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
少し生き方を変えればいいです。
レンさんのお悩みお察し申し上げます。
そうですね。たしかに神様に対して侮辱したら不安になるでしょう。
神様も仏様も遠い彼方で、自分とは違う存在だと思うと、又、神様や仏様が罰を与えると思うと、つい距離を持ちたくなるでしょう、自分の思い通りにならないとなんで言うことを聞いてくれないのかとボヤきたくもなります。
でも、本当は神様も仏様も、レンさんも同じ尊き存在なのですが、今レンさんは人間として様々ことを経験中なのでそのような意味では完璧な状態ではありません。
それに神様や仏様は遠い存在であると教えられてきました。
しかし実は、神様や仏様に文句を言うことは自分自身に言っているのと同じで、侮辱してはいけない、馬鹿にしてはいけないとは、自分自身の噓、偽りの部分に対してのことなのです。
どのように接するのか、自分の中に、いや自分自身が発展途上の仏であり神であるならば、自ずから接し方も変わりませんか。
自分自身を労り、愛すること、それは神仏に対することにもなります。
自分が努力、精進することはもちろんですが、他人に対しても労り救う行動こそが、神仏と同じ働きであると思ってください。
それが神仏を意識せずに見下すことがない生き方ではないでしょうか。
~追伸:返信~
「してはいけない」ある意味では、持ち越し苦労ということで、前もそうだったので、今回も同じ過ちをしそうという不安。しかし、その不安は現実化するので、やっぱりとなり、さらに落ち込みという悪循環です。ちなみに思うことが現実化するのがこの世の仕組みです。
「してはいけない」ではなく「しない」でいいのです。
まして、今回のことは、侮辱そのものは自分に対して言っている、思っていること同じなので、自分を認めれば、そういうことを”してもしかたない”ゆえに「しない」となります。
神様は怒っていますか?
レン様
こんにちは。ご相談ありがとうございます。
あらら。大変なことになっていますね。「神様に怒られたこと」ってどんなことなんでしょう? もしかしたら、神様は怒っていないのに、あなたが勝手に「怒られた」と思っているだけってことはないでしょうか?
「やってはいけない」と思えば思うほど行動に出てしまう人がいます。社会的にいけないことになってしまったりします。ご本人はかなり苦しいと思います。
たぶんですが、神様はあなたが侮辱してもビクともしないと思いますよ。それより、神様は怒ってもいないのに、「神様に怒られた」と思われる方がイヤなのではないでしょうか? 私は浄土真宗の僧侶です。「神祇不拝(神様を拝まない)」を宗(行動の指針)としています。こんな私のことを神様は怒っているかもしれません。でも「怒られた」と思ったことは一度もありません。そんな人もいますね。
質問者からのお礼
鈴木様
お返事、ありがとうございます。侮辱は自分自身に対して行っており、自分自身の嘘、偽りの部分なのですね。そこがうまく分かりません。なんとなく言っていることは分かります。
また、侮辱した過去を思い出して「また、同じ過去をしたらどうしよう」と不安になり「してはいけない」「してはいけない」となります。
この不安もどうすれば良いのでしょうか。
鈴木様
さらなるお返事、ありがとうございました。
貴方様のおかげで、私は侮辱したいから神様を信じているのだと気がつきました。
しかし、「侮辱しないために、神様を信じない」と認めても侮辱の言葉が心に浮かんで出てきてしまいます。どうすれば良いでしょうか?
次々とお忙しい中、失礼致します。ご教授いただけますと幸いです。