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82歳の母の急逝を受け止められません

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はじめまして。
先日、母が亡くなりました。
元気だったのに、誤嚥による肺炎で、入院からわずか5日目でした。

点滴を受けるため大事を取っての入院という心持ちでいたのに、具合が急に悪くなったと電話を受け今夜が山だと言われ、昨今のコロナ禍により病院にも入れないと言われました。
結局、母が暮らす街に入った途端、病院からかなり悪いので病院に来てくださいとの電話。駆けつけると、既に亡くなった後でした。

母一人子一人、あれだけ苦労して育ててくれた母なのに、最後に声を掛けることも手を握ることもできませんでした。
せめてもの救いは、とても安らかな眠ったような顔だったことだけです。

私は子もなせず、母に孫を抱かせることもできませんでした。
ありがとうを伝える時間も、ごめんねと言う時間もありませんでした。

私自身が病気の治療中で高リスク者ということもあり、また高齢の母に万一にもコロナをうつさないよう、正月すら帰省しませんでした。
そうまでして感染リスクを減らしたのに、コロナ禍の中で病院にも入れず、対面できたのは冷たくなり始めた母とでした。

何度も会いに行くべきだった。もっと電話をするべきだった。色々と話をするべきだった。
地元に帰って、母と一緒に暮らせば良かった。

母はきっと生を全うして楽になっているのだと思います。だから私がメソメソと引き留めてはいけないとわかっています。
でも、私を一番愛してくれて、唯一の絶対的な味方だった母がもういないことに耐えられません。

こんな悲しみや喪失感が無くなる日は来るのでしょうか?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

おかあさまに報恩の菩提心を発願し慈恩に報いる生き方を

悲しいことですね。
コロナは私たちから全てを奪っていきました。
正直な気持ちで生きてください。
おかしなことはおかしい、理不尽なことは理不尽、不条理なことは不条理。
まずは、それをきちんとそうなのだと遠慮せずに完全にそうなのだ、と受け止めることです。最近の流行りの思ったことも言わない、なんでも慎んでしまうような遠慮はいりません。そうでないと心は正直になれませんからこそ真実を真実として受け止められないのです。
ですが、悲しい、苦しい、つらいがゴールではありません。
心は苦しい状況にあればさまようものです。
そこで向かう先、導く先、進ませる方向性が大切なのです。
まずは仏壇、お墓でお母さまに向き合って今とても苦しいことを報告することです。そして、生前お世話になったことやご迷惑をおかけしたことを懺悔して、最上の礼を尽くすことです。あなたがそれをきちんと心においてやることが大事なのです。そして、初願忌において菩提心の誓願を起こすことです。(過ぎていたとしても今からでも遅くはありません。)報恩感謝とは音に報いてありがとうございますと感謝をするだけでは報われません。報いるべく、心を最上・史上の方向へ向けることがなければお母さまの偉大な死が荘厳されませんので、報恩の行として誓願をお立てするのです。
生前はとてもお世話になったね、ありがとう、という気持ちを込めて、これからは私も寂しいけどお母さんに助けてもらったこと、支えてもらったことを今後も生きていく力としてまとっていきます、どうかこれからも見守って、導いてくださいと至心に礼拝を勤めることです。お釈迦さまが亡くなられた後、仏弟子たちもお釈迦さまのような立派な人格を目指して誓願塔として供養塔をお建てしました。塔婆やお墓、お位牌、尊像、儀式、法要、供養というものはそこに血、心が通っていなければ形式だけになってしまうものです。
葬儀の際にはショックで中々そういう気持ちにはなれなかったことと思いますが、どうか、仏教の四弘誓願文を念じて報恩の菩提心をおこしてください。
心を向かわせ、導く先は苦しみの無い悟り、涅槃、やすらいの心境です。
明るい方へ、輝かしい方へ、温かい方へこころを向かわせるのです。
あなたとあなたとお母さんとの間に生じた心はあなたしか向かわせることができないからこそ、菩提心をおこして昇華させてあげてください。合掌

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

早速の御回答、ありがとうございます。
正直、お話が私には難しく、時間をかけて読み解いて行こうと思います。
(すぐに理解できず、申し訳ございません)
母から頂いた愛に恩返しができるよう、しっかりとできる限りの供養をしつつ、たっぷりと母と語り合って行きます。

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