宗教の自由
最近義母が亡くなり、葬儀の為主人の実家に帰った時に、義姉に宗教の事で言われる事が多くなりました。
主人の家族は、義父・義母・義姉(次女)3人が
宗教団体に入信しています。
主人・義姉(長女)・私は無宗教で、強いて言うなら、実家が東本願寺で葬儀をしていたので、私も同じ様に葬儀をしてと子供には話しています。
私は昔から義姉の入信した団体の友人等に、毎日勤行を上げているから、テスト・受験も上手くいくとか、日々の生活が全て上手くいくんだと自慢めいた事を聞かされたり、貴女の家で読まれているお経は、地獄に落ちるんだと訳の分からない事を聞かされたので、宗教が真底嫌いになりました。
で、今は姉に、無宗教は一番恥ずかしいとか、戒名・法名は位が高い人が付けるのに、一般人が付けてどうするんだと、また色々と話してきます。
私は、1神仏・人を信仰するよりも、一番自分を産んで育ててくれた父・母を尊敬しています。
日々両親に感謝する事で、良いと思っています。
争いの元になる事を作る宗教なら、私は無宗教で良いと考えています。
私みたいな考えて方は、間違っていると思いますか?
御住職方の、ご意見を聞かせてもらえないでしょうか?
よろしくお願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
知ってか知らずでか
こんにちは。私は浄土宗という宗派の坊さんです。
さて私達は、具体的・目の前にあるサンプルから、物事を一般化して理解していきます。自分の息子を見て、「男の子っていうのは…」と理解したり、過去の恋愛経験から「どうせ女っていうのは…」とか。自分の過去の思い出から「親っていうのはさぁ…」とか。
でもそれ、十分に一般化してよい状態なのかしら?十分なサンプルを見て、その共通点として理解しているのかしら?「この間、宝くじを買ったから当選した。だから宝くじは儲かるものだ」ん?それは、ビギナーズラックという奴では…?
ということで、いかに多くの・多彩なサンプルなり経験をしているかで、「何々というのは、コレコレである」という理解の精度が変わってくるのです。
ここで注意しなければならないのは、「だって自分が経験したから」というバイアス。自分の考えに最も影響を及ぼす事ですよね。「本で読むより、他人から聞いたのより、自分が体験したから、確かなんだ。」という思い込みです。イヤそれを「不確かだ、偽物だ」と言うつもりはないのです。けれど、「もっと色々知ってから判断した方が良いのでは?」と、私は思います。
ということで、あなたは冷静な方とお見受けしますから、書きます。
「マイナスの宗教ならいらない。それなら無でも良い。」なるほど。
では、「あなたにとってプラスとなる宗教」はあり得るかも、と感じますか?
いま、ちょうどいい所にいると思いますよ、「宗教を味見して、自分の好みのものを選べる自由がある」という意味で。イヤイヤ、入信とかする必要はないのです。色々と触れる中で、「その考え方、良いかも!」というものに出会えさえすれば。
あなたを支えてくれる言葉に、出会えますように。
それでいいですよ
あなたの考え方で良いのです。
宗教の目的は苦しみを取り除くこと。
あなたに苦しみを与える宗教はお勧めできません。
いろいろな宗教を知り、仏教を知り、その中に、もしあなたの腑に落ちる教えがあれば、それを信仰してください。
仏教を学ぶ中で何か疑問などが有ればここに質問してくださいね。
プライドの煩悩が原因
宗教をプライドの煩悩の拠り所にしている人達がいるのです。
そういう方々は、自分の宗教が一番正しい、と思えることが生きる支えなのでしょう。(それにすがる以外に希望がない暮らしなのかも。)
日常の社会生活で充分な自己肯定感がない場合、過激な新興宗教にハマりやすいのかもしれません。
仏教では、プライド(慢)もまた悩み苦しみの原因(煩悩)だと考えます。
プライドを完全になくすには悟る必要があるので難しいですが、
ブライドを満たすために争うのは、善くない(苦しみを増やす)のです。
なお、「私みたいな考え方は間違っているか?」という質問の中にもプライドの煩悩が潜んでいる可能性はありますね。
他人に何と言われようが平気でいられたら、人生が楽になるんですが、プライドの煩悩は最も手強い煩悩かもしれません。
質問者からのお礼
願誉浄史様、聖章様、佐藤良文様、回答して頂いて、ありがとうございます。
私は、つい最近まで考え方が間違っていると、散々言われ尽くして、宗教そのもが真底嫌いで
坊主憎けりゃ袈裟まで憎い状態になっていました。
今回の事をきっかけに、自分なりに宗教・宗派に触れて、お寺に足を運んでみたいと思います。
素敵な御言葉、本当にありがとうございました。