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お説教を受けました

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こんばんは。

いつもお世話になっております。ありがとうございます。

今の職場で4年程働いているのですが、今日は入社して半年の方に、お説教を受けてしまいました。

言葉が足りないということや、仕事の姿勢などを注意を受けました。

自分としては、なかなか仕事に慣れる事が出来ないので、いっぱいいっぱいなのですが、色々求められてしまうとプレッシャーに感じてしまいます。

言われていることは分かるのですが、自分でも出来ないので、困ってしまいます。

不向きな仕事をしているのか、今の自分の能力では、どこに行っても、この程度なのかが分かりません。

お金を稼ぐには、このような事もふまえて、ライスワークだと割りきって、今の職場にとどまろうと思えば、それも出来ると思いますが、その方が良いのでしょうか?

ちなみに僕も注意をしてくれた方も障がい者雇用です。

いずれにしても、自分で最後の判断をしないといけないですが、何かありましたらご教授頂けますと幸いです。

いつも似たような質問で申し訳ありません。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自分の心も救い 相手の心をも救う心 

どんな人生の地獄のどん底の苦しみであろうが、それも肥やしにする。糧にする。薬にする!学びにする!エネルギーにする!軌道修正にする!機縁にする!向上のたねにする!マリオのジャンプ台にする⤴この「(# ゚Д゚)メッチャへこたれへんでぇ」的エネルギー。無限のエンドレス向上精神をこそ菩提心と言うのですわい。
自分も救う。後輩も先輩も助ける、一切を救い向上させる精神!悟りも求め涅槃も求め、自分が救われていなくても困っている人がいようもんなら、んもー!🐄ほっとけない!ほっとかない!🍑自分も救う!相手も救う!犬も猫も砂も小石も救う。邪魔なところにあったらどけてあげる😼ピザもそばもラーメンも救う!チーズ固まらない内、のびない内に頂戴する!
そんな全人類の安心を求めていてもたってもいられない精神を持つ!悪党もサイコパスも感じ悪い人も救ってあげんことにゃぁ😼死んでも死に切れん!ぐらいの精神!あなたがシニテーというぐらい地獄の苦しみが生じたら、ああ、なんて可哀そうな俺!俺の心!(TΘT)俺が救ってやらんことにゃぁ死んでも死に切れん!とばかりに奮起。そうすることで怒られても説教されても後輩だろうがOH!なんと言い方・伝え方の感じ悪い言い方!こんな言い方の感じ悪いのはきっと過去に余程お辛いことがあったに違いない。ああ可哀そう!俺も!でもこの私にイイコト教えてくれている!ありがたし!でもこの言い方!凹む!(/ω\)でもOK!俺でよかった。他の人がこの人にこの言い方されたら、死んでるか刺されていたかもしれない。俺が怒られてあげてよかった。この人、言い方は下手だけど、私にはない素晴らしい気づきやスキルを持っている!この人も限られた時間の中でやらなければいけないことがあって忙しいにもかかわらず、この私に時間を割いてくださってありがとう!言い方はちょっと痛いけど、そうだね。言ってくださってありがとう。うん、共に魂レベルで向上いたしましょう。(´Θ`)✨(TΘT)✨
このぐらいの「メッチャシンデタマルカ&シナセテタマルカ」的向上精神=一切を救う精神があれば、死にたいような心や凹む心さえも自分で向上させることができるのです。
よって、最後の判断は「常に菩提心による安定・安住」です。
百点でなくてよいのです。
常に菩提心的な向上精神を持っていれば、心は必ず安穏、安楽の地に向かわずにはいられない🔥

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下覚元さま

こんにちは。ありがとうございます。

お礼が遅くなり、申し訳ありません。

自分も死んでたまるか、死なせてたまるか精神を持って、菩提心的な向上精神を身に付けたいと思います。

全てをマリオのジャンプ台の如く、機縁に繋げたいと思います。

ありがとうございました。

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