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お話を聞いていただきたいです

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こんにちは。

文章がわかりづらいかもしれませんが、ご相談があります。

先日おじが亡くなったという報告が母から来ました。
正直「死」に対してあまり実感がなく、高校生の時の祖父の死で少しずつ実感が湧き始めました。

今回のおじの死は交通事故らしく私は年に数回ほどしか会えなかったので悲しいはずなのに自分の感情がごちゃごちゃになって悲しいのか何も感じていないのかわからないでいます。
しかし父(おじの兄)といとこ(おじの子供)のことを考えるとつらくて本当に涙が止まらなくなります。

私は現在一人暮らしをしていて両親や父方の親戚は外国に住んでいます。そのためお葬式にもでられません。また、半年ほど前に大好きだった愛犬が亡くなった時もコロナの関係で1年以上会えないままのお別れになってしまいました。

今回のおじの死で愛犬のことも重なってしまいすごく辛いです。友達にも心配をかけたくないので相談はできません。しかしいつも通りに接することもできず余計自己嫌悪に陥ってしまっています。早く今まで通りに振る舞えるようにしたいのですが正直今は無理です。でも心配はされたくないです。両親もきっと今は辛いはずなので言い難いです。

大切な人を看取れずとても悔しく悲しい感情をどこに当てればいいのかわからないです。またもしもっと身近な人が同じように死んでしまった時、自分は遠くに住んでいるせいで看取ることができなかったらと考えるととても不安です。
どうしたらこの不安や悲しみや悔しさを和らげる(?)ことができるのでしょうか。

一方的に今の感情を書き留めたら長文になってしまいましたが最後まで読んでくださってありがとうございます。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

祈りを捧げる

しゃぼん玉 様 相談ありがとうございます。

大事な人が亡くなることは、不安で辛い。そしてそれを看取ることができないとなると、感情がどうなる見当もつかない。
あるいは、身近な人でなくても、その人の家族のことを考えると、同じような哀しみが襲ってきて、心のやり場がない。ということは、誰でも起こりうることですね。
なぜなら、亡くなったらどうなるかは、誰も解らないし、遺族の悲しみも体験したものでしか解らないからです。

もしでも何かできるとしたら、それは、祈りを捧げるということだと思います。
ご冥福を祈る。ご遺族の悲しみが癒えますようにと祈る。家族の幸せを祈る。友人のあるいは大切な人の幸せを祈る。
純粋に、真心(まごころ)で祈る。ということだと思います。
どの様に祈るかは、シャボン玉さんの信仰している方法でされればよろしいかと思います。
遠く離れていても、そのような祈るということが、目に見えなくても届いてくのだと思います。
「幸せでありますように。悩み苦しみが無くなりますように。願い事が叶いますよに、動揺することなく平安でいられますように」と日々祈ってください。
そしてそれは、「あなたが、家族が、友達が、周りの人が、遠くの人が」とだんだん広がりますように、祈りの思いやりを向けていくことで、大きな力となり、心の支えとなっていきます。
どうか、日々祈ることを心掛けて続けてください。
合掌礼

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お寺の法務(法事などのご先祖の供養)と 唱題行・写経・法話・カウンセリン...
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自身の死と他人の死と自身の「死を恐れる意識」はそれぞれ異なる

(._.)おじさんが亡くなられたことを聞いてさぞビックリされたでしょう。
そして悲しかったことでありましょう。
私も可愛がっていただいた伯父さんが亡くなられた時はショックでした。(´ー`✨)
親ではないですが色々面倒を見てくれる血のつながりのある縁の深い身内。親族。
何となく遺伝子的にも近しいですから、他人事ではありませんよね。おじさんの供養の為にもあなたが死の苦しみや恐怖を超えて強い心をもって立派になって頂きたいと思います。
大切なのはまず死ということをきちんと正しく理解すること。
混同しないように冷静に区別してください。
まず、あなたの死について。
朗報ですが、あなたは死を経験することは実はできません。
これは本当です。昨日寝たときに「あ、今寝た。」と言うことを自覚できたでしょうか?自覚できていたらそれは寝ていません。
同じように人間は死ぬ日、死ぬ時まで「死のことを考えた」としても考えているうちは生きているのですからそれは死んでいません。
死は経験・体験ができません。
勿論、病気で痛みや苦痛がある場合はあるでしょうが、それも生。人間は自分が死ぬこと、死んだことを自分自身で自覚ができないということなのです。
そして、おじさんの死、他人様の死と言うことはその人の死ですからあなたの死ではありません。病気の痛みもその人本人のものです。
さて、自身の「死を恐れる意識」について。
死というのは命・人生の最期、生の最後の瞬間であり、体験はできないということをお話いたしました。
死は、本人にとっての死の事実ではありますが、その死を「あれこれ思う・不安に思う・死のことがよくわからないために苦しむ」という思考は生のある内。そして死と言う実際に起こる現実と程遠い頭の中で「今」考えている本人の中の「ああではないだろうか・こうではないだろうか」という妄想的な想念なのです。なぜなら、まだあなたは死んでいないからです。
つまり、死の恐怖の正体とは、死といういまだ起こっていない自分自身の「いずれ起こるであろう体験できない瞬間を今からあれこれ思って不安に思ってしまうこと。それが死の恐怖・死苦ということの正体なのです。現実の実際の死とは別の次元・別のところで死ということを悪く思うということなのです。死ぬ苦しみというものがあるのではなく、死ということをネガティブに思うことが死の不安や苦しみなのです。

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