hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

お話を聞いていただきたいです

回答数回答 2
有り難し有り難し 12

こんにちは。

文章がわかりづらいかもしれませんが、ご相談があります。

先日おじが亡くなったという報告が母から来ました。
正直「死」に対してあまり実感がなく、高校生の時の祖父の死で少しずつ実感が湧き始めました。

今回のおじの死は交通事故らしく私は年に数回ほどしか会えなかったので悲しいはずなのに自分の感情がごちゃごちゃになって悲しいのか何も感じていないのかわからないでいます。
しかし父(おじの兄)といとこ(おじの子供)のことを考えるとつらくて本当に涙が止まらなくなります。

私は現在一人暮らしをしていて両親や父方の親戚は外国に住んでいます。そのためお葬式にもでられません。また、半年ほど前に大好きだった愛犬が亡くなった時もコロナの関係で1年以上会えないままのお別れになってしまいました。

今回のおじの死で愛犬のことも重なってしまいすごく辛いです。友達にも心配をかけたくないので相談はできません。しかしいつも通りに接することもできず余計自己嫌悪に陥ってしまっています。早く今まで通りに振る舞えるようにしたいのですが正直今は無理です。でも心配はされたくないです。両親もきっと今は辛いはずなので言い難いです。

大切な人を看取れずとても悔しく悲しい感情をどこに当てればいいのかわからないです。またもしもっと身近な人が同じように死んでしまった時、自分は遠くに住んでいるせいで看取ることができなかったらと考えるととても不安です。
どうしたらこの不安や悲しみや悔しさを和らげる(?)ことができるのでしょうか。

一方的に今の感情を書き留めたら長文になってしまいましたが最後まで読んでくださってありがとうございます。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

祈りを捧げる

しゃぼん玉 様 相談ありがとうございます。

大事な人が亡くなることは、不安で辛い。そしてそれを看取ることができないとなると、感情がどうなる見当もつかない。
あるいは、身近な人でなくても、その人の家族のことを考えると、同じような哀しみが襲ってきて、心のやり場がない。ということは、誰でも起こりうることですね。
なぜなら、亡くなったらどうなるかは、誰も解らないし、遺族の悲しみも体験したものでしか解らないからです。

もしでも何かできるとしたら、それは、祈りを捧げるということだと思います。
ご冥福を祈る。ご遺族の悲しみが癒えますようにと祈る。家族の幸せを祈る。友人のあるいは大切な人の幸せを祈る。
純粋に、真心(まごころ)で祈る。ということだと思います。
どの様に祈るかは、シャボン玉さんの信仰している方法でされればよろしいかと思います。
遠く離れていても、そのような祈るということが、目に見えなくても届いてくのだと思います。
「幸せでありますように。悩み苦しみが無くなりますように。願い事が叶いますよに、動揺することなく平安でいられますように」と日々祈ってください。
そしてそれは、「あなたが、家族が、友達が、周りの人が、遠くの人が」とだんだん広がりますように、祈りの思いやりを向けていくことで、大きな力となり、心の支えとなっていきます。
どうか、日々祈ることを心掛けて続けてください。
合掌礼

{{count}}
有り難し
おきもち

個別相談可能
お寺の法務(法事などのご先祖の供養)と 唱題行・写経・法話・カウンセリング、コーチングなどで活動しています。 メールでの相談も受け付けています。hasunohaの回答後のフォローアップはメールで致しておりますので、メールでお問い合わせください。また面接でのカウンセリングセラピーをご希望の方もメールで連絡をお願いします。 honsyoji.sk@ddknet.ne.jp へどうぞ。
昼間は、ほとんど法務に出ておりますので、夜の応対になります。 できれば、事前にメールで相談内容を教えていただければ、スムーズなセッションになるように思います。 プライバシー、相談内容の守秘義務は遵守いたします。

自身の死と他人の死と自身の「死を恐れる意識」はそれぞれ異なる

(._.)おじさんが亡くなられたことを聞いてさぞビックリされたでしょう。
そして悲しかったことでありましょう。
私も可愛がっていただいた伯父さんが亡くなられた時はショックでした。(´ー`✨)
親ではないですが色々面倒を見てくれる血のつながりのある縁の深い身内。親族。
何となく遺伝子的にも近しいですから、他人事ではありませんよね。おじさんの供養の為にもあなたが死の苦しみや恐怖を超えて強い心をもって立派になって頂きたいと思います。
大切なのはまず死ということをきちんと正しく理解すること。
混同しないように冷静に区別してください。
まず、あなたの死について。
朗報ですが、あなたは死を経験することは実はできません。
これは本当です。昨日寝たときに「あ、今寝た。」と言うことを自覚できたでしょうか?自覚できていたらそれは寝ていません。
同じように人間は死ぬ日、死ぬ時まで「死のことを考えた」としても考えているうちは生きているのですからそれは死んでいません。
死は経験・体験ができません。
勿論、病気で痛みや苦痛がある場合はあるでしょうが、それも生。人間は自分が死ぬこと、死んだことを自分自身で自覚ができないということなのです。
そして、おじさんの死、他人様の死と言うことはその人の死ですからあなたの死ではありません。病気の痛みもその人本人のものです。
さて、自身の「死を恐れる意識」について。
死というのは命・人生の最期、生の最後の瞬間であり、体験はできないということをお話いたしました。
死は、本人にとっての死の事実ではありますが、その死を「あれこれ思う・不安に思う・死のことがよくわからないために苦しむ」という思考は生のある内。そして死と言う実際に起こる現実と程遠い頭の中で「今」考えている本人の中の「ああではないだろうか・こうではないだろうか」という妄想的な想念なのです。なぜなら、まだあなたは死んでいないからです。
つまり、死の恐怖の正体とは、死といういまだ起こっていない自分自身の「いずれ起こるであろう体験できない瞬間を今からあれこれ思って不安に思ってしまうこと。それが死の恐怖・死苦ということの正体なのです。現実の実際の死とは別の次元・別のところで死ということを悪く思うということなのです。死ぬ苦しみというものがあるのではなく、死ということをネガティブに思うことが死の不安や苦しみなのです。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ