「死」を考えると気持ちが落ち着きます。
母の自殺から数ヶ月が経ちました。
四十九日を終え緊張の糸が切れたのか、うつ病が悪化してしまいました。
自責・不安・焦り・虚しさに毎日襲われます。気晴らしに…と好きなことをしても、楽しくありません。
また、母の自殺をフラッシュバックしてしまうため、"母が自殺した日"を何度も何度も追体験してしまいます。つらいです。
服薬治療も含め、できることは全てやっています。
でも、3年経った今も改善しません。それどころか悪化したので、「元気になりたい」という気持ちが湧いてこなくなりました。
以前は「元気になる」という目標がありましたが、今はそんなことを思えるほどの気力がありません。ただただ、生きるのに疲れました。自殺未遂をするほどには。
ただ、窓の外をぼんやり眺めながら遺書の内容や死ぬことを考えていると、心が落ち着くのです。
虚しさや不安を忘れ、「死んだら母のところに行けるかもしれない」と希望も湧いてきます。
以前こちらで相談したとき、【先に往かれた親しい方々やご先祖様がお母様をあたたかく優しくお迎えなさって下さいます。】と回答をいただいきました。
ふとそれを思い出し、「わたしが死んだら母が迎えてくれる、死んだら母に会えるんだ」と嬉しくなりました。
嬉しいなんて気持ち、久々に湧きました。だから、ホッとしたのかもしれません。
「死」を考えることで心が穏やかになるなんて、おかしいでしょうか。
また、心身共に疲れ果て気力がなくても、自分に鞭打って生きなければいけないのでしょうか。
わかりません。教えてください。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
死を考えて生を感じる事は大切です。
ふじいろさん、こんにちは。金剛座寺の染川智勇と申します。
お母様のご不幸から、逃れられないのですね。
何もしなくとも、時間が経てば人は必ず死にます。
だからこそ、生きることに意味があります。生きていれば何でもできます。
死ぬとたとえ霊界があっても自分の意思では何もできません。
お母様は悲しい選択をしましたが、それでも母の分身であるふじいろさんが生きている事で、母の果たせなかった幸せをあなたが実現することができます。あなたの幸せはそのまま霊界の母の幸せでもあるのです。親と子、先祖と私たちは連続して生をつなげている存在です。その長さは生命の誕生以来38億年、ふじいろさんに至るまで一度も途切れたことがないのです。生きている事自体が不思議、そして尊い。あなたの命の中には母の命の一部があるのです。だからこそ、ふじいろさんも私も、その命に感謝して、死ぬまでの時間を全力で生きなければなりません。辛くとも頑張らないと命は完全燃焼しません。
でも辛い時は心身のメンテナンスが必要です。それがいまふじいろさんには必要なんです。昔からの温泉に行きましょう。温泉は心身をリラックスさせてくれます。時間があれば湯治しましょう。そんなお金と余裕がなければ、私のように家風呂で長くゆっくりめに入りましょう。香りを楽しむためにバスクリン入れましょう(笑)。私は境内からドクダミの葉を取ってきてお風呂に入れて楽しみます。ドクダミは十薬という生薬です。臭い匂いもお風呂に入れると漢方薬のような気持ちいい匂いになります。そして心身の疲れを取っています。おすすめです。
今は無理せずゆっくり生きましょう。必ずメンタルリズムが戻ってきます。お医者さんの薬だけでなく、その間に食事改善や運動も必要です。そして心と呼吸を強くするには毎日の読経が大切です。般若心経でもいいし、覚えるの大変なら、念仏や題目を千回唱えるのもいいです。少しずつ自分の心身を変えていく。その前向きな行動が大切です。
合掌
あなたの思いよくわかります
拝読させて頂きました。
そうですね、あなたが死を考えることで心が落ち着くことわかります。あなたは死の先があることを知ったからではないかとも思います。私もそう思うことはよくありますね。
生きること、そして死があり、その先には迎え入れてくれる人がいて迎え入れてくれるところがあるから心が落ち着いてふと安心することができるのかと思います。
あなたも私も孤立無縁ではありません、あなたにも私にもいつも見守っていてくれる人がいるのですから死に向き合うことができるのかと思います。
そして今を生きていることができるのかもしれません。
生きることはなかなか難しいことばかりです。なかなか受け入れられないことや傷つくこともありますし、病いにもなります。大切な人やものとの別れもあります。本当にしんどい疲れたと思うこともあります。そんな中で何で生きていかなければならないのかと思ってしまうこともあります。
宜しければあなたの思いを可能な範囲でゆっくりとお聞かせ下さいね。死について生きることについてその時その時思いつくことも移り変わっていくかとも思いますが、心を楽になさってみてゆっくりと死について思い巡らしてみて下さい。
そんなあなたの姿をきっとお母様はいつも見守り、あなたの思いに寄り添っていて下さるでしょうからね。
お返事ありがとうございます。逆にあなたが生死にしっかりと向き合っているということは正しく人生に向き合い生きていることの証だと思います。紆余曲折はするとは思いますが、じっくりとお向き合いなさってみて下さい。必ずあなたなりの答えや生き方が見つけられると思います。
ゴールが見えると安心できる
何事も、ゴールが見えると安心できます。
また、いつでも中断して良い、いつでも休暇して良いとわかることも安心につながりますね。
私はたまにジョギングしますが、家の近所をグルグル周回する方が、疲れたらいつでも家に帰れる、トイレにもすぐ行けるから安心できます。
浄土宗では、南無阿弥陀仏と念仏を称(とな)えれば、死後に必ず極楽浄土に往生できると考えます。
南無阿弥陀仏。
これで1秒後に事故死しても大丈夫です。
極楽浄土行きのチケット「南無阿弥陀仏」を眺めて、チケットを落としていないことを確認するだけでも和みます。
死を考えるときに、阿弥陀仏が極楽浄土に迎えてくださるイメージも付け加えてみると、暖かい気持ちになると思います。
浄土宗は毎日極楽(あの世)のことばかり考えている暗い宗派でしょうか?
いいえ。ゴールが見えているからこそ、明るく「今・ここ」の現実生活に集中できるのです。
質問者からのお礼
染川智勇さま
Kousyo Kuuyo Azumaさま
回答ありがとうございます。
精神疾患がわかって以来、ラジオ体操を3回・ヨガ・深呼吸して呼吸を整える・自分なりのリラックス方を実践するなど毎日欠かさずしています。最近は仏教の本も読み始めました。
また、お散歩中にお寺を見つけたら必ず立ち寄って合掌、念仏を唱えるようにしています。
ちなみに、薬は対処療法だと思っているので、薬の力にだけ頼ろうとは思っていません。
改善の努力をしているのに効果が現れないまま3年がすぎました。その焦りと不安、恐怖心が「死」を連想させているのかもしれません。
生きるのって大変ですね。
回答を拝読して、より強くそう感じました。
今はゆっくり休んで"とりあえず"でもいいので生きて、"生死"に向き合ってみようと思います。
改めて、この度はありがとうございました。生きることと死生観を考えるきっかけになりました。
※お礼追記
願誉浄史さま
コメントありがとうございます。お礼が遅くなり、申し訳ありません。
【ゴールが見えているからこそ、明るく「今・ここ」の現実生活に集中できるのです。】
目から鱗です。
わたしは先が見えない現状が不安で不安で仕方なかったのですが、"死"を考えると気持ちが穏やかになれたのはそういうことだったのですね。
"死"を考えるのはネガティブだと思いがちですが、"ゴール"と考えるとポジティブですね。
わたしが"死"を考えてしまうのは、今の生活に集中しようと努力している証なのかもしれません。
なんだか、先が見えない不安から脱出できそうな気がしてきました。智慧をありがとうございました。南無阿弥陀仏。