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家族と絶縁したのは正しかったのか 回答受付中

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30代女、既婚で現在夫と2人暮らしです。
徒歩圏内に夫の実家、隣県に私の実家があります。

私の家は両親と子供4人です。
母は姉たちの幼い頃に飲食店経営に失敗し多額の借金を作ったあと、カルト宗教(◯原が昔いたところ)に傾倒し借金返済とお布施のために働き詰めでした。
父が会社員だったのでそのおかげで食うには困りませんでした。

姉や妹は幼少時から私をブスだガリ勉だと馬鹿にしていました。
特に長女とはそりが合わず、ガリ勉気持ち悪いと面と向かって言われたりしました。
高校時代に母が倒れた時、私が家を出るのが一番遅かったことを引き合いに出して
「お前がお母さんの体調を察せなかったのが悪い」と責められ、入院した母の代わりに家事を全て引き受けて、始業式の日に母が倒れたためクラスで友達作りができず孤立したこともあります。

私以外は進学の意思がなく高卒なのですが、私はずっと大学に行きたいと言っていたため、父方の祖父母の援助で大学に行けました。
そのことを「自分も大学行きたかったのにお前だけ行かせてもらってずるい」と姉妹から責められました。
(祖父母が、大学に行きたいと言ったのは三女だけだったとのちに教えてくれました)

それ以外にもいろいろあり、家族とこれ以上付き合っていけないと一昨年から連絡を一切断ち、絶縁状態です。

最近思うのは、コロナ禍でことさら家族の絆が重要視されている気がしてなんとなく肩身が狭いことです。
私は家族と会わなくてむしろ人生がうまく回っていると思いますし、夫と夫の家族が近くにいるので寂しくないです。
世の中帰省できなくて寂しい人が多いのを目の当たりにして、そうでない自分に疎外感を覚えたりとか、冷淡な人間なのではないかと思ったりします。
そして、家族と絶縁した自分がおかしいのかと思ってしまいます。

いわゆる毒家族持ちの私ですが、もしかしてこの家庭環境は毒ではないのでしょうか。
絶縁は間違っていたのでしょうか。
自信がなくなってきました。
ご回答よろしくお願いいたします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

毒の正体をみきわめるべしっ( ゚Дメ)

(´●ω◉‘)あなたの明るいあしたのために、断て、断つんだ情!
心のセコンド、丹下DP(仮名)です。
家族の縁を断つ必要はありません。怨憎会苦とは苦手な人と関わる苦しみ。その苦しみの想念の根「だけ」を断つべし、絶つべし。
断つべき根っこは苦手な相手を意識する時に生ずる、本人たちとは別のところ。内なる心炎🔥心の中の煩悩炎なのです。
毒気のある人間を変えることは不可能。ならば、その凄まじい人間毒素にこちらの身心が害されないように処するだけでいいのです。
ムリして嫌な人と接して自分をいたずらに苦しめるなら上手な距離感も大事♡ソーシャルディスタンス。
血のつながりは事実ですから関係は断てません。こちらは静かに暮らしていたいだけなのに、嫌な態度で絡んでくる人というのは沢山います。
実際にあなたを苦しめたのですから、事実上の毒の作用だったのでしょう。ですが、毒は中和するか薬に転ずればよいのです。人生大切なのは好転、陽転、善転、善導の精神です。

自身と他の存在をしてこの上ない最上無為の心へと導く精神。この善導の精神を自分の人生の中で立ち上げることが仏教の宗教心であり、発菩提心というのです。そもそも人はなぜおちょくるのか、人をDISるのか?酷いことを言うのか?それは本人の性格ともいえましょうが、その心理の背景にはその人に感染した負の怨念や本人も嫌だった体験から生じたネガティブ心理の伝染なのです。後天的な縁や本人の保身によって他存在へ毒づくようになるのです。
赤ちゃんの泣くという行為もSOSの他の方法がないから泣くのです。
同じように人が人をいじる、いじめる、おちょくる、悪く言う、DISる、毒づく、おとしめる…、これらをする人間も他の救いがなく、他の行動の選択肢がないから毒づくだけなのです。その「人間性」に問題があるのはもちろんですが、赤ちゃんが泣くことでしかSOS信号を出せないのと同じように、人を悪く言ったり、蹴落とすことでしか自分の安全性・安心を確保することができない心理によってそういうショーモナイことをせざるを得ないのです。
そこにあなたも慈悲や憐みの心をもつ。
そして、あなたは貴女自身として人間性を高める。
それが無上菩提を求める仏道と言うものです。
これは万人の課題・急務なのです。悪縁は人畜無害な縁に好転すればよいだけです。まずは負の炎が生ずる場所を知ることからです。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

お互い大人になれるか

若いときに仲が悪かった親族とも、お互い家族ができて精神的にも経済的にも落ち着いた大人になれれば、けっこう上手く付き合えるようになる可能性はあります。
わだかまりが多少あっても、たまに顔を合わせたときにわざわざケンカすることなく必要な会話をできれば、それで充分でしょう。
だから、チャンスがあれば家族との付き合いを再開することも考えておきましょう。
ただ、絶縁を決めた当時には、そのときなりの理由があって判断したのですから、それを後悔する必要はありません。
後悔はストレスの原因になりますからね。
お互い大人なんだからチャンスがあれば仲直りしても良い、程度に気楽に考えましょう。
毒親・毒家族と絶縁することは、仕方ないと思います。
みんな自分が一番可愛いのだから、まずは自分の身を守ることが大切です。

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おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

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