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私のせいで大切な仲間を失くしかけてます

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モラハラ旦那との19年、2年前に離婚しました。モラハラ生活で私は自分を無くし無で生活する事がこの家で波風立てず過ごせる術を身につけました。その為感情が乏しく人の優しさや傷つきが分かりません。それどころか自分が傷ついた気持ちも分かりません。凄く酷い言葉も言われていたのにそれにも傷ついた感情を感じる事無く過ごしていました。そのせいなのか人を傷つけてる自覚もなく傷ついたよと言われても痛みを分かってあげることが出来ないのです。
タイトルに書いた大切な仲間はモラハラを受けていたことを気付かせてくれました。何度もあなたは間違ってないよと肯定してくれたし、数々の相談にも親身にのってくれアドバイスもくれ、離婚をする際にも支えてくれ友達を想う気持ちがものすごく強い仲間です。
しかし私はそんな仲間の気持ちを当たり前で甘えるだけ甘え常識もなく迷惑ばかりかけています。迷惑をかけている自覚もありませんでした。
全ての考え方が元旦那が基準になっているとも言われました。仲間の内の1人と1年半前から一緒に働くようになり、私と過ごす時間が長くなってから私は彼女を何度も怒らせ悲しませてしまっている状態です。何度言っても私が改善しない。自己中で人への優しさもない、何でも当たり前、上っ面だけの感謝と謝罪、考え方も幼稚で、迷惑かけ続けて自覚持てない。今のあなたは元旦那と同じであなたがモラハラを受けてきたように、私たちが今あなたにモラハラを受けてる状態だよ!モラハラ脳を自分は性格が悪い女だと腹に落とせない限り、人の傷みや哀しませてる事が分からない以上あなたは変われない!あなたのせいでこの大切な仲間が崩れかけてるんだよ!
と、涙ながらに訴えられても自分の置かれている状況や危機感がわかず傍観者のようになっている自分がいます。
哀しませたくない気持ちで接しているのに全て逆効果で不愉快にさせ続けているんだとか。なりたくない人に自分は似てる。こんな心も感情もない私が子供を育てて大丈夫?とも言われました。
自分はモラハラ脳なんだと、性格が最低最悪なんだと、腹に落とすために声に出して自覚をすることが必要だと。あと自分は幸せなんだとも声に出してと。なかなか腹に落とせない自分が嫌です。仲間からは変われないと思うとももう離れた方がいいのではの意見も出始めてます。これだけ事があっても寝れるし食べれます。
私は変われますか?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

だからこそ の 善意、善導、善玉菌精神を持つ!

こんにちは。^_^
モラハラクズ旦那との壮絶な地獄ライフ、誠にお疲れさまでした。また、勇気をもって離婚を決意されたこと、おめでとうございます。
ご友人の涙ながらの訴えは実に的を得た真実の愛語ですね。
確かに負の連鎖は放置すると継続します。だからこそ仏教的な宗教精神で心の毒素のデトックスをして自身に染まった悪意も浄化しましょう。
何よりもあなたが負の毒素に染まっていることを勇気を出して教えてくれた方の熱意と善導の精神をあなたもきちんと受け止めてモラハラ旦那のようにならないように!と、反発のエネルギーを糧として自分の心も善導し、人間性を高めましょう。あなたは変われます。だって、あなただって嫌だったから離婚したのでしょう。それも変化を求めた姿。貴女も「あんな思いを他の人にもさせたくない」と思う気持ちがまるでないわけではないでしょう。
話は単純です。
元旦那も自分の悪いことを論理のすり替えであなたのせいにしてきたはずです。
よって、今、自分が改めるべき心理は「人に迷惑をかけない=人にやさしく接する」だけです。
素直になる事です。
ほっぺたをつねってみてください。痛くなるまで。
痛いことは痛い。
痛い事、嫌なこと、つらいことは誰もが嫌です。
あなたも嫌。他の人も嫌ですよね。だから、それはアウトプットしない。
仏教では人間の活動のアウトプットの箇所を3か所に限定しています。
身の行い、言葉の行い、心の行い。
この三つにハラスメントに該当することしない・させない・つつしむ。
そのメインは心です。脳です。
心の中で負の思い、負の活動、ネガティブなキャンペーンを展開しないこと!
絶対に感じの悪いことを思い起こしてたまるかぁ!と自制することです。
仮に負の思いが出てきてもそれは「かまってちゃん」なので関わらない事。
関わるからあなたもインナーのネガティブ意識に染まる。
もうあなたはあのモラハラ旦那の誰も喜ばないキモい負のエネルギーに同調しなくていいのです。
仏教は出離・出家・自立・独立の精神。
あなたが過去の苦しみや負の経験から自立・独立するためにも心の中で沸き起こる負の思いからソーシャルディスタンスをとればいいのです。
思いはそれを自分が思おうとしてできてたのではない。
誰のものでもない負の思い。
誰も拾い上げることが無ければあなたの負の思いは誰も拾わない。
あなたは自由になれます。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

お礼のコメントが遅れてしまい申し訳ありません。記入したのですが反映のボタンまでいってなかったようです。
お言葉をいただいてから自分の中でも少し気持ちが軽くなり考え方をポジティブに向けることが出来、友達を怒らせることが少なくなりました。
ありがとうございました。

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