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この時代は「末法」ですか?

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有り難し有り難し 17

『末法灯明記』と言うの本読みました。末法の予言が現実の社会情勢と一致したため、私の現実社会への不安は一層深まり、この不安から逃れるため厭世的な思想に傾倒していった。

もちろん、とてもいい僧侶はいっぱいいます。でも、仏教の問題より社会の問題です。社会は退廃的だと思います。日本だけではない、お金持ちのG7欧米国もおちめになります。昔いの道徳はどこですか?末法思想は多分本当に今日の世界ピッタリフィット、だんだん。。。
南無阿弥陀仏。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

正法は正法を求める人の中に見出される。

末法は、この世は末法だと思い込む人の中で末法になります。
末法も正法も本人の中の問題です。
釈尊の時代にも末法どころか地獄、餓鬼畜生、MADな人間はいたでしょう。
釈尊の説法を聞いてもその内容をきちんと受け止めることができなければそこに正法はあらわれない、伝わらない。
よって正法、像法、末法は時代や場所がどうかと言う事よりも、本人の菩提心やきちんと仏法を明らかにされた「正師」を求める気持ちがあるかないかの問題です。
最初から「(´ー`)この世は末法だァ、おしまいだァ。」という考え、思想「そのもの」が末法思想と言うものなのであって、末法思想と正法とはまるで別物です。
故に道元禅師は『正法眼蔵』を著わされて正法の内容を懇切丁寧に説いておられます。それによって確かに救われる内容があるのですから、真剣に求める人の上にきちんと正法が伝わる。
たとえ周りがどうであろうが、他者がどうであっても、自分自身が本当に正法を求めようという志を起こすことが大事です。
お経や他人の言葉を鵜呑みにして経典にこう書いてあるからと妄信してそこであなたが真剣に正法と言う事はどういうことなのだろうか?という疑問や求めを起こさなければあなたも人の言葉や本の言いなりになってしまう。そういう姿勢は菩提心、求道心とは言えないのです。
「末法を正法にめぐらす」ということが大切です。
正法とは人がきちんと絵空事なしに本当に救われる内容を持った教え。仏法そのもの。仏法そのものをきちんと会得すればその内容は正法・像法・末法と言う隔てを飛び越えます。
仏法とは人の見解(考え・思慮分別・意味づけ)以前の様子です。
「後から頭で考えたこと」は副産物やファンタジーだったりするものです。
あなたが今生きていること、息をしていること、考えていること、そしてあなたが考えをあれこれ起こす以前に存在していること、あなたが考えを起こす以前に存在していることにあなたの後付けの意味づけがない事をまず知りましょう。
人は人から教わった情報をその通りに思い込まされていることが大いにあるものです。
仏教や仏教思想、後世の僧侶たちが作り上げた仏教学や仏教思想を知る前のあなたの上に正法像法末法と言う事はないでしょう。
正法とはこの上なく明晰な追求があれば誰の上にでも現れる全人類、全世界の人に共通する一大事実です。
ぜひ真剣にお求めください。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

感謝の申し上げようもございません.ご指導ありがとうございました。僧侶様のメッセージには深い意味が込められています。何度も読み返したいと思います。お言葉は私の気分を高揚させてくれました。大変を世話になります。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ