供養は届いているのでしょうか?
昨年末、父をがんで亡くしました。
半年たった今でも会いたくて辛くて毎日毎日泣いています。
毎日、私と同じ食事を供え、お菓子や果物を供え、ろうそくや線香を着けて話しかけています。
お寺さんのお経、私のしている事、ろうそくの火、線香の匂い、など、生きているものがしていることは父に届いているのでしょうか?
時々、生きている者の気休め、遺族の自己満足ではないか、父には何にも届いていなくて、父は無になって、遠いどこかへ行ってしまったのではないか、と思います。
そして私が死んでも父には会えない気がします。
会えると周りは慰めてくれますが、私は死後の世界は無いと思っています。
供養として行っている宗教的な事は遺族への慰めのような気がするのですが、故人に届いているのでしょうか?
故人は考えたり、遺族を見ていて守ったりしてくれているのでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
まず、問うているあなた自身の立場を明確にして下さい
こんにちは。
先ずは、お父様を亡くされたことにお悔やみ申し上げます。
過去のあなたの質問からも、あなたの悲しさが伝わってきます。
ただ、お悲しみの心情を踏まえた上で、敢えて私はあなたに考えて欲しいことがあります。それは、あなたが「死後の世界は無い」という結論から動かない限り、「供養」を問うても答えはでない、ということです。
なぜなら、「供養」は死後の故人を想定して行われるものです。
「死後の世界は無い」のに、死後の故人を想定する、ここが既に矛盾しています。
あなたは、悲しみの中にあるから、どのように考えたらいいのかが整理できていないのかもしれません。
しかし、どこまでも「死後の世界は無い」という非宗教の立場でいる限り、「供養として行っている宗教的な事は遺族への慰めのような気がする」という宙ぶらりんな気持ちから脱することはできません。非宗教の立場から純宗教的、仏教的な行いである「供養は届いているのでしょうか」と問うても答えは決して出ません。
現在の自分の立場を維持するか、仏教に舵を切るのか。
後者であれば、「供養は届いている」という問いには自明のごとく答えが出ます。
まず、問うているあなた自身の立場を明確にして下さい。
俱会一処
大切なお父さまが亡くなられ
本当に悲しいお辛いことと思います。
仏教では
亡くなった人は成仏すると説きます。
お父さまは仏さまに成られたのです。
また阿弥陀経では
「俱会一処(同じところで供に会う)」
とあります。
南無阿弥陀仏と称えれば
同じお浄土に往生し
先に成仏された方々と
再会できるとのことです。
あなたの想いは
お父さまに届いているでしょう。
そうイメージしませんか。
『死後はどうなるの?』
というスマナサーラ長老の本が角川文庫から出ています。六道輪廻とそこからの解脱についてです。死後の世界があるかどうかがなんとなくわかると思います。仏教的に言えば、「死後」ではなく、いつでも自分が今生まれて生きている「今の世界」に生まれ変わるということになるでしょうか。
供養が届くかどうかについては、拙著『功徳はなぜ廻向できるの?』国書刊行会があります。買うのが嫌なら、誓教寺ホームページから施本『供養ってなに?』がタダで読めます。
質問者からのお礼
生きている者が仏教を信仰してこそ供養と言うものが成り立ち、生きている者が無宗教なら成り立たない。
やはり、生きている者次第と言う事だと理解しました。