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動物の善悪

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自宅のガレージにセキレイという鳥が巣を作り卵を産みました
人間の腰くらいの高さに巣があったので猫などに食べられはしないかと心配していましたが、しばらくして小鳥が何羽か生まれました
ある日、なんとなく巣を見るとちょうど蛇が小鳥を食べている所でした
助けようかと思いましたが、自分が鳥を飼っているわけではないし、蛇も生きるために食べているのだし、どうしようかとしばらく見ていると私の家族がそれを見つけて早く蛇を殺さないと鳥が可哀想だと怒りました
殺すのは気が引けたので、棒で少しつついたら逃げて行きました
しかし翌朝見ると鳥は全滅していました
おそらく蛇がまたやってきて食べたのだと思います
蛇は悪だと家族は言いますが、私はどうしてもそうは思えません
しかし鳥が死んでしまったので悪いことをしてしまったような気もします
お坊さんなら同じような状況を見たらどうしますか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

人類史上最高の精神を求めて発心 菩提心を発願する機縁となす

いわゆる聖人君子みたいな綺麗ごとを言って欲しいようでしたら
「👴ウム、蛇にも蛇の守るべき生命があるからひな鳥が食べられてしまうのも宿命なのぢゃ!」とか言ってもいいですが、それは本にも書いてあるので別角度から。
🐔ウチでもニワトリ飼ってまして。毎日ホンっとに毎日生みたての子供をさらって、ああ、生きたまま、ああ、むごたらしく食べてしまうのです。カラスの奴め。(たまごですが)
仏典でもインドで赤ん坊がワシにさらわれて母親が心病んで出家する女性の話があります。あなたもその女性とは違いますが、そのもやもやした状態。心をどこへ向かわせるべきかの大きな岐路に立っておられます。そこで単純な性善説・性悪説やら安い慰め話、是非善悪、物質主義・唯物主義に染まらずに、万人を救いえる確かな見識をお持ちになるという高め設定で答えをお出しになられることをお勧めいたします。こういう問題は実は人をダメにする危険性があるからです。単純に答えを出してしまうと人はものすごくドライになる。それが世の宿命だ、みたいにドライになると血の通わない事務的AIロボみたいな人間になる。そんな人と共存する方は本人はお気づきではないですが「冷酷な人…」と思われているものでございます。質問者様およびこれをご覧になられた方に関しましては少なくともそのようなドライ人間になられませぬよう祈ります。
政治の話ではなく現在の人類の話です。中国共産党は世界でも大きな力を持っています。チベット人、僧侶を虐殺し、ウイグル人を虐殺し、臓器狩り医療。民族浄化と称して望まない結婚をさせられて強制労働。これをヘビとひなの関係とするならば力さえあれば弱者は滅ぼされてOKということになりましょう。実に人が人として人の心を持たずに「力こそすべて」な鬼的マインドでしょうか。
人間はそりゃぁいくらもとびっこもシラスも食べますから大量虐殺が行われます。
それは食べ物の話。
ですが、人間が人間として誰もが守るべきものを持っている。守るべきものの最上の精神は本当は何か?ものか?命か?権益か?善意か?自由か?利便性か?
動物世界の話では動物なのでルールがありません。犬猫のように見た目が可愛ければ人間界では正義という考えは他の動物は死んでOKという痛い考えになります。
そこで目指すべきは高い人間性、高い宗教精神。この話をヒントに「安易に」答えを出さないでください。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

畜生道

太白さま

鳥を助けても、蛇は別の生き物を食べてその別の生き物が死ぬことになるでしょう。もちろん、蛇を退治して鳥を助けても、鳥により芋虫など他の生き物がたくさん死ぬことになるとも言えます。

いずれにしても食物連鎖、自然摂理の世界も、やるかやられるかの繰り返しのしんどい世界であります。

仏教では畜生道における動物たちの苦しみも同様に憐れみ、どうか悟りへの道へと向かえるようにとして功徳を回向する、また、供養することが大切となります。

川口英俊 合掌

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最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断しています。 https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k

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