死後の世界について
単純な質問ですが、天国や地獄というのは本当に存在するのでしょうか?
私は、地獄行き確定の事を過去に何度もしてしまいました。(仮に存在がなくても、してはいけない事をするつもりはありません)
過去の所業の後悔を少しでも和らげたいです。是非とも知恵をお借りしたいと思い、相談させて頂きました。よろしくお願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
天国、地獄は、ここにあります。
天国や地獄という世界。麦茶さんは、死んでから行く世界とお考えでしょうか。
私は、決して死んでからいく世界ではなくて、今こうして生きている世界でも、天国や地獄を経験していると思います。もし、死後の世界にもあるならば(行ってみなければ分かりませんが)今の延長線上にあるのでしょう。
天国というのは、自分も周囲の人たちも、みんな幸せという状況でしょうね。分かり易く例えれば、健康で経済が安定していて、心が落ち着いていてお互いに信頼し合っている状況が、天国であり浄土であり極楽という状況でしょう。
反対に地獄は、怒り、貪り、闘い、嫉妬、不安、恐怖etc、マイナス的なことはすべて地獄の様相を表し経験しています。
ゆえに、死んでから行くというのではなく、今も常に経験している、又、してきたのです。だからこそ、真面目に正直に素直に生きることが大切なのです。
しかも、このような世界ゆえに周囲に流されることなく、生きることが麦茶さんの言われる「過去の所業の後悔を少しでも和らげたい」ことに繋がるのではないでしょうか。
まだ証明はされていないけど、
私は存在すると信じています。
どのような生きものも
阿弥陀如来が救ってくださって
お浄土に往生し成仏すると
私は信じています。
根拠は
そうあってほしいからです。
もしかしたら地獄があって
私もそこに堕ちるかもしれませんが
そうなったらその時に苦しめばいいだけのことで
死ぬ前から
死後の地獄のことで苦しむ必要はありません。
「葬送のフリーレン」という漫画のセリフを載せますね。
『 天国がたとえ実在しなかったとしても、
あるべきものだと思います。
そのほうが都合がいいからです。
必死に生きてきた人の行きつく先が
無であっていいはずがありません。
だったら天国で
贅沢三昧していると思ったほうが
いいじゃないですか。 僧侶ハイター 』
極楽との対比の地獄の話
こんにちは。
私は、天国と対比した地獄を知りません。
仏教で天国は、地獄同様の迷いの境涯ですから。
しかるに極楽との対比の地獄の話でしたら聞いた事があります。
極楽に往けるのは、ただ南無阿弥陀仏のお陰によってのみです。「過去の所業の後悔」は、あなたの人生にとって必要なステップでしょうが、それを深めたから極楽行きが叶うのではありません。また同様に地獄行きが回避できるのでもありません。
私は法話を聴くことを勧めます。
法話を聞けば、自らの業の深さに気づかされると共に、このような私を見放さずに極楽へとおっしゃってくださる阿弥陀さまのお慈悲の心が分かります。
阿弥陀様のお慈悲の中に生かされる人には、極楽があることはもちろんのこと、極楽行きのことも必ずや、と安心させられます。
つまり仏教徒として、極楽の主である阿弥陀如来様のお心に触れればご質問の回答は自ずと分かる、ということです。
死後の世界
麦茶さま
死後の世界は、色々と様々に行き先、自分の転生のあり方次第になって参ります。
浄土、天、修羅、人、畜生、餓鬼、地獄・・
仏教では、三千大千世界が一つの世界(イメージ的には宇宙が三千個集まってある感じですかね。もっと膨大かもしれませんが)で、娑婆世界もその一つです。
要はこの一つの銀河系のある宇宙だけではなくて、無数の宇宙、また、別次元(11次元まであることが証明されています)ももちろんありますし、更には、別の三千大千世界、例えば、極楽浄土や浄瑠璃浄土、他無数の浄土等など、行き先は無尽蔵にあると言えます。
もちろん、極楽に赴けても、阿弥陀如来様の説法が聞けて、修行に励むことができる存在として転生できているのかも、重要なことになります。(仏教を学び修せられる有暇具足に恵まれてあるかどうか。例えば、善根・功徳が少なくて、極楽に往生できたとしても教えを聞くことのできない境涯に生まれるということもありえるのであります。)
問題は、次生でどこへ行こうが、それを捉える自分の心(業)の状態次第になり、その世界の事象を捉える自分の心が汚れていれば、その世界は、汚れた世界に映えて、それにより苦しむことになります。極楽に往生できたとしてもです。
逆に、地獄であっても、心が清らかであれば、その世界は清らかな世界に映えて、それにより苦しむことはありません。
例えば、少し大雑把な比喩ですが、地獄でも、心が清らかで、他を助ける行いをすればするほど、その因果により自分も助けられて、たとえそこが地獄であっても自分にとっては極楽に映えた世界になりうるということであります。
つまり、その行った先々の世界を認識する自分の心の問題次第であるということになります。
このことは唯識思想における過去世からの心(の阿頼耶識)に薫習された習気(薫りが染み付いたようにそのモノコトを捉える習性)が、そのモノを捉えているという複雑な構造について学ぶと、そのことがよく分かるようになります。
まさに今からでも、心を清らかにしていく仏の教えを実践していけば、この世界を極楽に映えさせることももちろん可能となります。
仏教を学び修していって頂けましたら有り難くに存じます。
川口英俊 合掌