生きるモチベーションがない
遠くに目指すものがあって、入手できたら楽しいだろうと頑張ってきました。
今はそれらを大体手に入れましたが、幸せを実感できずにいます。
去年クラスメイトが急に自殺をしてしまい、当時はなぜそんなことをするんだろうと泣いていましたが、今ならその気持ちをちょっぴり分かってしまいます。
なにか趣味を作ろうと数年間頑張っていろいろ遊んでみましたが、全然見つかりません。
自分が知っているのは狭い世界でしょうけど、興味あることは大体やり尽くしました。これから目指すものがありません。
今まで思い描いていた理想的な未来像を改めて考えると、仮に頑張った結果実現できても、いまいち楽しそうじゃないなぁ、ならばなぜ頑張るのか、なぜ生きるのか、と少し思い詰めている感じです。
そして、以前から怠けもので、日々のルーチンワーク(食事、起きる、寝る、入浴、外出、各種手続きなど)がとてもとてもめんどうくさいです。これから死ぬまでもずっと耐えてやるのかと思うと気が遠くなります。自分の存在を消したいです。
人間は結局遺伝子の入れ物にすぎないのに、みんなよく頑張ってるなぁすごいなぁって感じです。
強いて言うなら、生きる理由は、勝手に死んだら親とかよくしてくれた人たちに申し訳なさすぎて地獄行きになりそう・死んだ後もっと辛いかもしれない・コスパ合わなくても、今後いいことはあるかもしれない、今後やりたいことは出てくるかもしれないとかですが、これではいまいち弱い動機付けです。
メンタルクリニックに半年通い、薬も飲んで、カウンセリングも受けていますが、あまり効きません。
自分は理系で、納得できないことはやれない考え方で、生きるならばその動機付けとなりうる大きな理由やモチベーションのヒントをなにか授けられたら幸いです。
うまくまとめられず、乱筆失礼いたしました。
どうぞよろしくお願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
なんのためにうまれて、何をして生きるのか?
思い描いていた理想的な未来像ってどんなのか気になりますが、さておき。
「なぜ頑張るのか、なぜ生きるのか」はある意味究極の問いですね。
全員が全員同じ解答になることはないでしょうし、人がこれだから自分もこれってもんでもないかと思います。
「親とかに申し訳ない」「死んだ後もっと辛いかもしれない」「今後いいことはあるかもしれない」
これでいいんじゃないですか?何かダメなんですか?
個人的には「人間は結局遺伝子の入れ物にすぎない」と思ってるうちは、これを上回るモチベーションなんて沸いてくるのかなぁと思います。
間違っているというわけじゃありません。むしろ正しい。
遺伝子だったり、脳という人もいますよね。
でも、それで納得して達観したところで、次に新しい何かは生まれるのかなぁと思うんですよね。
「どうせ死ぬでしょ」と達観する人と同じ。
その達観を前にして、だれかのアドバイスは輝けるのでしょうか。
毒矢の喩えっていう有名なお話があります。
お釈迦さまの弟子で「死んだらどうなるのか」ばかり考えてる方がいました。
その方にお釈迦さまは
「いま毒の矢で射られたとする。君は矢をうったのは誰か、動機は何なのか、毒の成分は何か、すべてがハッキリしないと矢を抜かないのか?今なすべきことは何なのかを考えなさい」
モチベーション高く生きることがすべてじゃないと思います。
色々考える前に、今すべきことを一生懸命する。これも生きるってことでしょう。
ところで、アンパンマンの「いのちの星のドーリィ」って知ってますか?
自分あれ好きなんですよ(*^_^*)
命をもらった人形が、好きなことや楽しいことばかりしてても何か虚しい。
そして「なんのためにうまれて、何をして生きるのか。わからないなんて、そんなのはイヤだ」って最後に叫ぶんです。
なかなか泣けますよ。おすすめです。
追記。死にたくないから生きている。満足していない。
心臓は生きようと動き続けています。
生き物は、「死にたくない」というエネルギーがあるから生きているのです。
お釈迦様は、生への執着をなくして平安なる滅び(無涅槃:ニルヴァーナ)に入られました。
完全に執着がなくなり、満足したら、生きることから卒業できるのです。
満足していないで、怒りで生きるのを拒否するのとは違います。
完全に満足するのです。
食事に例えると、お腹がすいている(満足していない)けど、ピーマンが嫌いだから食べない、というのが普通の人。
充分に食べて満足したから自然に食べるのをやめるのが、悟り、ニルヴァーナでしょう。
あなたも、「○○がめんどう」とかいう「ピーマン」ではなく、もう充分に生きた(満足)によって、生から卒業することを目指してはどうでしょうか。
追記
悟りに近づくと心が軽くなって、めんどくささがなくなるそうです。
悟ったお釈迦様は、梵天様から人々を救済してくださいと頼まれて、ひきうけました。
世界中の人を救うなんて、普通はめっちゃめんどくさいのに。
遺伝子の入れ物?
こんばんは。私も動物行動学とか好きで、結構かじりました。「生き物は遺伝子の乗り物」と、そこでは言われていました。ヴィークルだと。遺伝子の目的はシンプル。「自分のコピーを増やす」ですから、それに繋がることが喜びと感じるようにドライブしないと、遺伝子は目的を果たせないのです。あなたの言う「入れ物」と「乗り物」の違い、感じますか?
私たちが遺伝子にドライブされているのであれば、どうして「生きるモチベーションがない」状態に到るのでしょう?遺伝子の目的に反しているのに。その仕組み、どうなっているのでしょうね?遺伝子の目的に反抗できるのか?或いは何かが邪魔をしているのか?研究されているようですよ。少なくとも、その目線で人間の行動を観察すると、いろいろと腑に落ちる…納得することがありますよ。
そうそう、納得というのは、「自分の目で見て腑に落ちる」ということですよね。自分が何に納得するかは、現在の自分に規定されているのです。そして、納得することで、自分の側にも変化が起きます。次の納得への入り口に立てるのです。私は、お釈迦様はこれを突き詰めたのではないかと考えています。世の中全てのことに、「うん、そういうことだよね」と。理不尽も含め、不満や不安に思うような状況も含め。で、最後は「この世は美しいよ」と言って去っていらしたのです。多分、あなたが「詰まらなそう」と思っている事にも、きっと楽しさを見つけ出すだけの眼力が持てたのでしょうね。
病気の方が、「道に咲く一輪の花の美しさが目に入るようになった」といった話を、聞いたことはありませんか?その方からは見えることが、貴女の目には入らない。まだまだです。
もしかすると、「モチベーション」を手放して、世の中をフラットに、ふらっと見ることができるようになると、新しい「世界=見え方」が見つかるかも知れませんよ。「これは(私から見て)価値がある・これは価値がない」と分け隔てない世界が。