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自己嫌悪がとまらないです…。

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有り難し有り難し 35

初めて相談させていただきます。

わたしは昔ついた嘘や自分の行いに
とても後悔しています。
もしかしたらあの時の嘘が、行いが
今も人に迷惑を掛けているのではないかと
心配になってしまいます。
(詳細はプロフィールに書かせていただいてます)

これ以上人には迷惑を掛けずに
生きていきたい、善い行いをしたいと
考えていますが
ずっと自責の念で頭がいっぱいで
そればっかりになってしまいます。

わたしはここからどのように
生きたらいいのでしょうか。

拙い文章ですが
アドバイスいただきたいです。
よろしくお願い致します。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自責の念を持ち続けても意味がありません。

睡蓮さんのお悩みお察し申し上げます。

随分とご自身の過去の行いで反省し、自己嫌悪になっておられるようですが、まずは、ここで一旦、その事から断ち切りましょう。
過去の出来事を冷静に振り返ることができたのはいいことです。
大抵は順調に行っている時や、過去を顧みる機会がない時は、そのまま走り続けています。それがいいとか悪いとかではありませんが、それなりの結果は出てくるでしょう。

今回、睡蓮さんは、一度立ち止まり過去の出来事に対して、反省をし、生き方を変えようと思ったのですから、それでいいと思います。

過去の出来事は変えることはできませんが、反省や懺悔することはできます。そして二度と同じことはしないと誓うしかありません。
又、自責の念、すなわち罪悪感を持ち続けることも意味がありません。
いくら自分を責めても意味がないと思ってください。そこには何の発展もなければ解決もないのです。
それよりは、ここでしっかりと反省したなら、これからはみんなに迷惑を掛けずに生きていこう。みんなが楽しくなるように振る舞っていこう。と思えばいいのです。
これからの人生が大いに楽しくなるように考えることです。

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有り難し
おきもち

日蓮宗のお寺で、名古屋市南区にあります。 ”お寺は生きている人のためにもにある”と発願し、法筵寺を新寺建立。住職として41年になります。どこまで、その思いを達成しているか分かりませんが、少しでもお釈迦様、日蓮聖人の教えに触れて頂けたら思います。 FB https://www.facebook.com/kaisho.suzuki 法筵寺FB https://www.facebook.com/houenji/ 日蓮宗ポータブルサイト内 https://temple.nichiren.or.jp/3031069-houenji/

身口意の三業、六根を清浄なるものに。

人間の行いには大きく分けて3つしかありません。
身の行い、口(ことば)の行い、心の行い。
シンプルに考えると、言葉と行動を統制する心を納めればよいのです。
その為に坐禅があり、仏道修行があります。

また、人間の感覚は6つに分けられます。
般若心経にも説かれる眼耳鼻舌身意。
すなわち目と耳と鼻と舌と体と心です。
この六つの感覚器官の行動を丁寧にする。
具体的にしてみるとわかりやすいものです。
目線、耳を傾ける、嗅ぐ、味わう、話す、行動する、思う。
これを他人目線で考えてみましょう。

眼、どういう様相でいるか、ファッション、表情、態度。
耳、どういうトーン、口調、声色、テンションで言葉を話すか。
鼻、香り、香水、雰囲気。
舌、相手に話しやすい態度であるかどうか。おいしいものを提供できるか。
身、相手に心地よく過ごしていただくような環境的な配慮ができているか。
心、相手に不快のないような接し方ができているかどうか。
これがお店であれば、店内の環境づくりに役立てることができるでしょう。
眼 対象とするお客さんにとって好感を持たれる作り
耳 店内BGM 静寂さ 
鼻 お店の空気 香り
舌 お出しする飲食物の品質
身 サービス 快適さ 
心 満足していただけるような心遣い オモテナシ

このように人間の行いというものを身と口と心の三業として単純に考えて、言葉や行動、心の在り方を清浄なるものにしていこうと志すことです。
また、六感、六根、六門とも申しますが、目と耳と鼻と舌と身と心のインプット・アウトプットを工夫する。
自分自身でもこれが良いと感じることはあるでしょう。
他人さまも同じです。
また仏教では布施、愛語、利行、同事というお互いに心が安楽になる行動の法則を説いております。
布施 ほどこし 相手のためになることを提供する姿勢
愛語 相手を傷つけることなく優しい言葉を発する
利行 自他ともに利益される善行をつとめる
同事 立場や条件や好き嫌いなく純粋な善意で自他の隔てなしに相手のことも我が事のように助かる行為をする

何をやっていいか、どうすればいいのかということが具体的にハッキリすると、人間は手ごたえを感じられるようになるものです。
あなた自身を高めるためにも仏の教えを取り入れてみてください。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

有難いお言葉をいただき
誠にありがとうございます。
繰り返し読ませていただき、その度に
心が軽くなっていく気分です。
しっかり自分と向き合い、いま側にいてくれる人達を大切にしていきます。
本当にありがとうございました。

丹下様
お言葉を掛けていただき
誠にありがとうございます。
おっしゃってくださったことを
胸に善行を心掛けていきます。

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