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過去も辛い現在も辛い未来も辛い

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有り難し有り難し 30

初めましてななみです。自分は中卒の25歳で今まで働いたことなく社会の常識を知りませんでした。先月初めてアルバイトの面接に行きました(不採用)ふと気になって一人で生きていくにはどうしたらいいんだろう?と思い調べると、日本の低賃金のバイトやパートだけじゃキツイ、正社員じゃなきゃ生きていけない、中卒に就活はできないなど。自分には学歴もスキルも資格も何にもありませんこんな自分は正社員にはなれないよな〜と思いながらあれ?働かないと生きれないけど、正社員にはなれないから働いても生きていけないのでは?と思うようになりました。ほんの数週間前まで頑張ろう!働こう!と思っていたのにここ数日辛く悲しい過去を振り返り、辛く悲しい未来を想像するようになって怖くなって泣いてしまいました、確定している辛く苦しい将来が待っていると思うとなにもやる気が出なくなり生きることを放棄したいと思ってます。気を強く前向きにポジティブになりたいです。乱文失礼致しました。 実はこの相談昨日もしたのですが他の方の相談内容に比べてちっぽけすぎない?自分でどうにかしろっ!と思って回答される前に消してしまいました。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

《やってみて》わかることを大切に

一度消して再び投稿してくださったのですね。その理由にとても好感を持ちました。同時に、ななみ様のこれまでの生きる姿勢のようなものも感じました。

「こんなことして良かったのかな?やっぱりやめとこう」という引っ込み思案。実は私もそういうタイプなのでめちゃくちゃよく分かります。

しかし、ななみさんはその引っ込み思案を乗りこえ、バイトの面接に行くという《行動》を起こしました。とても素晴らしいことだと思います。不採用になったその日は、ななみさんの人生において記念すべき一日であると私は声を大にして「おめでとう!」と言いたいです。これを読んでくださった方もきっとそう思うに違いありません。

とは言え、私がななみさんの立場ならば、やはり落ち込むことでしょう。しかし、それはよくある事でずっと落ち込むことではありません。

私も10代の頃、初めてバイトの面接に行ったときに不採用でした。面接でしばらく会話した後、店長に「また数日後に連絡します」と言われ、家で待ち続けました。姉に「それ不採用って意味だよ」と言われ、知らなかった自分が恥ずかしくなりました。

でも、今振り返ってみると、全然恥ずかしいことではないなと思います。なぜ自分が面接で不採用になったのか、《やってみて》わかったんです。理由は割愛しますが、ここで言いたいのは「知る」と「わかる」の違いについてです。

どれだけ知っていても、「知る」は「わかる」にはならないのです。なぜか。それは《やって》みないとわからないからです。
やる前から「知る」ことも大切ですが、それはただ「知ってる」だけのこと。本当にその知識が通用するかどうかは、《やって》みなきゃわからない。

不採用になり、たくさんのことがわかって、ななみさんは恐ろしくなったんですよね。

しかし、よく考えてみてください。今までその恐ろしさがわからなかった過去の自分と、それを身にしみてわかった今の自分。どっちが本当に恐ろしい状況であるか。ななみさんはどう思いますか?過去の自分の方がずっと恐ろしいのではないですか。これも《やってみた》成果です。

さらに、ここに相談文を投稿してくださった。これも大進歩です。それはつまり、自分と親以外の誰か・何かを頼ることができたということです。自立とは、自分で何でもできることではなく、頼れるものを増やしていくことです。またいつでも相談して下さい。

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有り難し
おきもち

1979年名古屋市生まれ。 真宗大谷派の僧侶です。

過去はもうない未来はまだない現在はとどまらないからそれは嘘

過去がつらくてもそのつらい過去はどこにもないし楽しい過去もどこにもないから、思い出しているその過去とやらは現在の記憶で未来がつらいといっても未来はまだ来てないからそれは未来じゃなくて現在の妄想だから今苦しいといっているその思いだけが苦しいのであって現在は自分が暴れなければ快適だから心を静かに。

人は言葉や情報に騙されて自分をネガティブゾーンに落とし込んでいるだけです。
錯覚ですからきちんと現状を理解して、自分の脳内毒汁に酔わされないようにしましょう。

過去の悩みはいつやっているのか。それはいま。
未来の不安はいつやっているのか。それもいま。
今の悩みはいつやっているのか。それもいま。
では、実際の問題は今実際に発生しているのか。それはない。
10日後ボクシングのリング上で対戦しなくてはならないにしても、いまだその時ではないし、そこに相手はいないし、そこはリング上ではない、現場でもない。
よって、事件は現場で起きているのではなく全部あなたのアタマの中のリング上で起きているのです。
そこを見極めてきちんと現実の今日の今のそこのその場のそれっきりのそれを見失っている自分を見つめてみましょう。
念とは今の心なり。
その思いをおこしているのはどこのだれのいつでしょう。
ゴングはもう鳴りました。
そして、あなたのその思いの一念の鐘はもう鳴りやんでいます。
実在しない思いの響きよりもこの身が体感している今の現実世界の響きに耳を傾けることからです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます!うまく言葉にはできませんが8月に入ってずっと憂鬱でしたがなんかパァーッとスーッとなりました!

ありがとうございます!過去の出来事には今も苦しめられてますが、まだ起こってないわかりもしない未来に苦しめられることないですよね

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ