人生の意味、運命
人間の人生に、意味はあると思いますか?
人生の中で起きた様々な事柄に、理由はあると思いますか?
私はかつて、決して人に言えないような、いえば確実に社会からバッシングを受けるようなことをしてしまいました。今は深く反省して、縁のあるお寺のお坊さんに全て告白して、もう二度としないと懺悔し、誓いました。それから毎週そのお寺に通い、お釈迦様と不動明王様に礼拝し懺悔を繰り返して、なるべく人や動物や虫に優しく、周りの言動に怒らないように、仏様の教えを胸に抱いて生きています。
けれど、私は自分が何故あのようなことをしてしまったのか、自分でもわからないのです。あの時の感情も記憶も朧気で、縁のあるお寺のお坊さんは「思い出さなくていい。全部忘れて、前に進みなさい」と言ってくれましたが、どうしてもわからなくて気になってしまうのです。なにか理由があれば、そうなってしまったのは仕方ない、受け入れようと思えるのですが、自分がした行為が自分でも理解できなくて、意味があると思えないのです。無意味な行動でとんでもない業を背負ってしまった罪悪感で毎日死にたいと思っています。自分の行動が世間にバレた結果家族が受けるであろう制裁を考えると、自分の存在を全て消して死にたくなります。
人生で起きる全てには意味があると、お坊さんたちはそう思えますか?
意味があったと強いて考えるなら、自分自身を見つめ直し生き方を改め、仏教に出会いお釈迦様の教えを尊び心から仏を信じることが出来たことかなと思うのですが、今の私の姿に価値があるとは到底思えません。
現状に意味があるとは思えなくて、生き方を間違えたのだと、早く死にたい、死んで仏様に会って色んなことを教わりたいと毎日考えています。
もう自分の未来に望みはありません。
地獄に落ちたとしても、当然の報いだと裁きを受けいれます。
でも、どうしてもわからないのです。自分の行動の意味と理由がわからないのです。
わからないのが怖くて、自分が気持ち悪く醜い生き物に見えてしまいます。
こんな私に生きる意味はあるのでしょうか。
拙い文章で申し訳ありません。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
意味があって生きるのではなく、生きるところに、意味は生まれる
こんばんは。亀山純史と申します。
私にも、深く反省しなければいけない行為は、数多くあります。これらのことは、時間は戻すことが出来ない以上、どうしても避けることが出来ないことであり、悔いても悔み切れないところです。
さて、私自身は、「意味のない人生はない。」と思っています。しかし、それは「初めに意味ありき」ではありません。つまり、「人生には〇〇のような意味があるから、私たちは生きるのです。」ではないと思います。
そうではなくて、私たちが生きていくところに、意味が生まれてくるのです。何かに失敗しても、何かに悩んでも、それらに対して、私たちは意味を見いだすことができるのであり、それが次へのステップへと繋がっていく、そう思っています。
ですから、あなたにも生きる意味はあるのです。しかし、あなたの人生における意味は、あなた自身が生きてみないとわからないのです。生きて初めて、意味は生まれるのです。
たとえば、「人身(にんじん)受け難し、今すでに受く。 仏法聞き難し、いますでに聞く。」(「三帰依文」より)というフレーズがありますが、このフレーズと人生の意味を結び付けてみれば、次のようになるでしょうか。
「仏法を聞く」という意味が私の人生にすでにあって、それで今、仏法を聞く人生を歩んでいるのではなく、幸運にも、仏法を聞く人生に現在恵まれて、「仏法聞き難し、いますでに聞く。」という表明から、「仏法を聞いていくところに、私の人生の意味はあるのだ。」という、人生の意味が生まれてくるのです。
以上が私からの回答です。少しでもお役に立てればと思っております。
目の前に三つの果物やお菓子があるとします。🍓🍊🍉
「どれでもどうぞ」と言われると人間は瞬時に一番おいしそうなものを選べる力が備わっているそうです。パンを選ぶ、ご飯、お味噌汁、スープを盛る時、意識してみてください。
子供も自分を表現するのにうまく表現できないと叩いたり、大きな声を出したりする。何かの為にとか理由なしに。スラム街や貧困世界で子供がお腹がすいていつい食べ物に手を伸ばす。盗もうとか悪意でやるわけではなく「ただ」。カラスが人間に森を破壊され追い出されて飢えて人間の食べ物を荒らす。悪意があるわけではない。天然の作用。生命の本能。どっちにも悪意があるのではなく「ただ」。生命の本能的な作用。仏教では様々な思いもよらない不可思議な働きを「縁」とも言います。事の運びも縁。作用、流れも縁。様々な縁が人間の都合とは別の所で無我の作用として積み重なっている。原因、作用・過程、結果。かつてのあなたの結果も、今は原因、因縁。作用として次なる方に働きかければ自分を向上させてくれる良いタネ、縁になる。運命というものがあるんじゃない。運命の真意とは縁の重なりですから「ことの運び」。事を運ばせること、自分で導いてよい方向へ事を運ばせることが運命なのです。人間関係だって縁や作用があるだけでしょう。あなたがそういう行動をついうっかりとってしまった。そこに明確な説明や理屈はなくてもいい。くしゃみや咳をするのにたいそうな理由はいらない。世の中の傷害事件や犯罪だって、悪意や計画的なもの以外はみんな「とっさに」それしかとる方法がなかった、哀しい選択によるものともいえましょう。
なぜ、今そういう姿勢をしているのか。
なぜ、このサイトにたどり着いたのか。それも理由があるというよりも縁や作用だけがあったからなのです。その「ことの運び」によって、今、最終的に心地よいところに身を処するようになっている。その働きは「天然無為」なのです。人為的ではなく、生命のサガともいえましょう。ただし、ここで「だからこそ」なのです。
だからこそ、人間は動物的本能のようにわが身、我がことファーストな強烈なエゴがある。だからこそ、そのエゴのエネルギーを善意に転じて、自分もよろこばしくなる、相手も喜ばしくなる作用へと行動・言動をよりよく導く必要があるのです。「回向」。そうすることで人は心が喜ぶようにできているからなのです。
質問者からのお礼
お忙しい中、真摯に答えてくださりありがとうございます。今の私には、自分の生きてる意味も過去の行動の理由も何もわかりませんが、とりあえず死ぬまでは生きていこうと思います。もう二度と人の道を踏み外さないように仏様の救いだけを信じて歩いていきます。
ありがとうございました