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親から受けた心の傷が消えません。

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もういい年齢なのに親からされたことで心の傷が消えません。

言うこと聞かない私のお尻を父親が蹴り、それをみて“やれ!やれ!”という母親。
自分の意見に“わかりました。その通りです。”と言わないと終わらないお説教。
父と母はいつもタッグを組み私は攻撃されてました。等

私の気持ちを理解しようだなんて姿勢は生きてきて一度も感じたことはありません。

何不自由なく育ててもらったのに
フラッシュバックして辛くなります。
両親も年なのに未だにこんなことを思ってしまう私が人間的にだめなのか?いつも葛藤します。
客観的にみればひどいことされてるのですけどね。
一人っ子なのですが、家族がまだ生きているのに孤独を感じます。
生まれてくるところで人生って少しは変わるような気がします。

だから、私は子供を産まない決意をしました。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

('Д')ひっでぇとうちゃん、かぁちゃんだねぇ。
心の傷は消せる。それは心の傷は傷じゃなくて「かさぶたをひっかいていた」と知ればいいのサ。
誰でも過去の嫌な記憶はあるよネ。
でも、それを毎日24時間の中でどれだけ、思い返さずに過ごすかが大事なんだよ。
でも、出てきちゃうときはあるよネ。
そんな時にお勧めのイメージは荒川静香選手やマトリックスのキアヌ・リーブスのイナバウアーです。あなたの負の記憶を脳内で生じる弾丸とするなら超絶軟体反り返りポーズをイメージしてかわすことだ。('Д')
実際にやると背骨折そうになって、ひっくり返って壁に頭ぶつけるからやらない方がいいけどね。(やったんかい)

本当は父ちゃんが怒るなら母ちゃんがフォローするとかありゃぁ良かったのにねぇ。
フラッシュバックも繰り返しではなく、今日の新たな弾丸だと思うこと。同じ記憶のような気がするけど、新たに脳が勝手に思い起こしただけ。そして、それを継続しちゃうのが傷をひっかく行為なのだと見極めてみるとイイよ。('Д')

たこさんだけに「他己」という言葉を知っておこう。
自己に対して他己とは他人のことではなく、自分の中の他存在の意識なのです。
あなたととうちゃんかあちゃんや友達や知人は別存在でしょう。
でも、存在はしている。存在しているけど、目の前にはいない。
かつて蹴っ飛ばした父ちゃんも記憶でしかない。
「問題は他己なのだ」と私も教わったよ。
アイツが嫌だ、あいつが許せないと思うその心はどこにあるかっていうと全部自分。実際の父母は今は目の前にいない。
相手を問題にする自分の意識こそ自分を苦しめているって知れってことなのサ。
生まれは選べないから親が毒親でも自分の聖域や人間性を高めていけばいいんだよ

昭和の教育は「我を無くさせる」教育だったから、押さえつけるのが効果的と思ったのかもね。その方が学校や企業に入ったときに長生きできるからねぇ。役所とか固い企業なんて個性や我があったらむしろもっと叩かれるんスわ。乱暴だったけど、我を無くそうと昭和世代なりに試みたのかな。〇国や北〇鮮なんて個性が強いと投獄されたり殺されちゃう。でも、かわいそうにねぇ。なでなで。できれば褒めて育ててくれよって、言いたいよねぇ。オラも親にバカだのカバだの言われて育ったけど、子供にはなるべくやさしく接しているから子供持っても大丈夫ズラよ。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

やはり育て方で生きやすくなるか生きにくくなるかって必ずあると思うのですよね。
私は今の親の育て方で生きてきた過去変えられないので、これからどう生きるのかを考えないといけないですね。
実際、今は距離をとっています。
関わると爆弾が飛んでくるので。
避ける体力気力は今の私にはありません。
アドバイスありがとうございました。
いつの日か乗り越えられるといいなと思っています。

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