hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

謝罪しても意見を言っても悪口を言われる

回答数回答 1
有り難し有り難し 10

どうすれば良いのでしょうか?
何か注意された際、謝罪だけだと「他に言うことないの?」「じゃあなんでミスするの?」と言われさらに怒られてしまい、

注意された際、それが他の方の指示の上で行ったものだった為、「申し訳ありません。しかし、この人に指示されてやりました」と言えば裏で「自分が悪いと思ってないんじゃない?」「ヘラヘラしてるよね」と言われてしまいます。

謝罪しても駄目、濡れ衣だから自分の意見を言っても悪くとらえられる。
何が正解なのか、泣けば良いのか分からなくなりました。
むしろ上司達は私を辞めさせたくて言っているのか、とも。

社長も上司から報告を受けているようで、上司から必要以上に怒られた後(お客様の前でだったり、他のスタッフ全員が揃っている時だったり)、更に社長からも皆の前で怒られてしまいすごく精神的に参ってしまいます。しかも、怒る内容も具体的な例ではなく、「もっと臨機応変に対応しろ」とか、「(仕事の業種)以前に社会人としての行動が出来ていない」「愛想笑いはやめろ」等、その時のミスで怒るのではなく、急に怒ってきます。しかも怒ってくる期間も何故か休み前の帰りに怒り、休みを挟んで休み明けの朝にまた言ってきます。怒るまでの間隔に何かをしたわけではなく休みしかなかったのに何故かそんなに怒られなくてはいけないのでしょうか。

そして入社して3ヶ月で具体的な研修もないにも関わらず、全ての業務を完璧にこなせと言われるのは普通の事なのでしょうか?


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

合わない職場7割 自分にピッタリな職場3割と考える

・この世にイイ人は何割ぐらいで性格のキッツい人は何割ぐらいか。
・あなたと相性の合う男性女性は何割で合わない人は何割ぐらいか。
ざっくりでいいのでそういう目線を持ってみましょう。
仏教でも怨憎会苦、求不得苦を説きます。
そういう苦しみは無くすにはなくせますが、自分の生活に無理がたたるほどの苦しみを「耐えろ」と仏教は説いていません。
まず、その出来事が苦しみになる以前のままの事実としてキャッチしているところに目を向け、明晰な心、冷静なこころで、物事を最初から害悪とはとらえずに無色透明なものとしてみつめてみる。苦楽のない響きとしてみなさいというものが仏教の説く、出来事の本質の教えです。
ですが、何でもかんでも万能と捉えずに、いじめはいじめ。パワハラはパワハラ。考えすぎは考えすぎ。自分中心は自分中心。会社が自己中ならそれは会社のブラック。ちゃんとみきわめることです。
職場の本質は人間なのです。
人間VS人間。
こちらが無我、ノンエゴ、柔らかな人間性であるとしても、それでも会う人合わない人はいるものです。
いじめやパワハラギリギリの感じの悪い人もいる。
世の中の犯罪だって犯罪にならないギリギリの悪事というものがある。
あなたに限られたい一日は24時間。
起きている時間は寝ている時間以外。
その阿木られた時間、人生の中でわざわざ性格の悪い人たちや感じ悪い人たちと無理して一緒に居続ける必要があるのでしょうか。
あなたのスキルはどこでも通じるのだからあなたに強く当たる人のいないところを探す努力も大切です。
「人生の優先順位を考えてみしょう。」
本当に私にとっていま必要なことは何か。
怒られてでも傷つかずにうまくやり過ごせる社会人スキルを向上させることか。
快適な安全地帯を求めて傷つかずに過ごすことか。
本当にその仕事をやりたくてやっているのか。
いずれにせよ人生においては、ある程度きつい人とでもやんわりかわしながら生きていく力は必要です。
もし、その力を求めたいのであれば禅を学んで物事の本質を知ることです。
そうすることで受け止めに私見が介入されなくなる。
ひょこひょこと事あるごとに問題が起きて、傷つく内なる「自我」モグラを黙らせることもできるようになる。
無理して、我慢して、要らぬことに時間を費やして自分を病ませて今後の人生そのものを狂わせることはありません。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます。
自分の人生の優先順位という言葉にハッとしました。
やはり自分の精神を削ってまでその職場に居続ける意味はないなと改めて感じました。
もっと自分の事を大切にしようと思います。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ