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自分の健康と親の介護の優先度は?

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現在、風邪が長引き、多少体調を崩してはいますが、出来る範囲での親の介護(外出の付き添い・食事の下ごしらえ・マッサージ等)をいつも通りに行っています。

その行動に対して、「自分の体調が悪いならば無理する必要無いでしょ?」と言われました。
その根拠は、「体調が悪い中、嫌々、しぶしぶと作った料理には悪い念が入るから作らない方が良い」とのことでした。

私自身、がん再発の可能性はありますし、親の介護も私以外でも対応できますし、「どんな無理をしても私がやらなきゃいけないこと」という意識もありませんので、無理をするつもりも、無理をしているつもりもありません。

「自分に出来ることを淡々とこなしている」という感じであり、「こんなにしてやっているのに!」とか、「何故、ここまでしなきゃいけないの?」とか、「本当はやりたくないのに」などの思いはありません。

それでも、自分の健康状態が完璧な時以外は、他のために何かをしてはいけないのでしょうか?

自分の健康を回復するために親の介護を離れたとしても、「すべきこと」が無い状態では気を紛らすことも出来ずに、体調の悪さにばかり意識が集中してしまいそうです。
「起き上がれないほどに弱っている」ならば、静かにベッドに入って休んでいるでしょうが、「それほどでも無い」ならば、退屈してしまいベッドの中でテレビやゲーム・読書をしてしまいますから。

それでも、体調不良というマイナスオーラを伝染させないために、介護などのすべてを投げ出して自分の健康回復に努めるべきなのでしょうか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

気持よく行動を指針に

こんにちは。お悩みを拝読させて頂きました。

どうやら癌をお煩いになった事がおありのようですね。
大変でしたね。でも、回復されて良かったですね!

恐らくご家族も癌を回復された貴女の事を思いやって「無理に動かないで」と
仰っているのかもしれませんね。

ただ、無理をして動くな…の理由に
>「体調が悪い中、嫌々、しぶしぶと作った料理には悪い念が入るから作らない方が良い」
という理由があがるという事は、少々身体がシンドイ時にそれが表情や行動に出てしまっているのでしょう。

もし、貴女が介護をしたいと思うのであれば、多少しんどくてもされた方が心にも身体にも良いように思います。(もちろん無理をしてはいけませんよ。無理の無い範囲で)

ただ、その場合、ひとつ気にした方が良い事があります。

同じやるなら気持ち良くやるということ。

笑顔で明るい声で介護してあげてください。

それが出来ないときは、キッパリと今は調子が悪いから出来ないと体調管理に専念する事を自分に許してあげて下さい。

気持よく笑顔で行動していると、身体の不調も少しづつ整う事も有りますよ。

健康のご回復をお祈りしております。

合掌

ーーーーーーーーーー追記ーーーーーーーーーーー

質問者様の書き込みを拝見して追記をさせて頂きます。
人からどんな風に見られてもかまわないのです。自分がその事をして気持ちが良かったり、充実感が得られるのであれば。人の表情は様々です。笑顔で悲しくなく人もいれば、しかめっ面で安らぐ人もいるかもしれません。

要はあなたの本心が気持よければそれでいいのですよ。

辛そうに見えても、自分に取ってはかけがえのない時間である事を周りの人に説明すると良いかもしれませんね。

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おきもち

個別相談可能
仏道に入門して40年が経ちました。 死ぬまで修行を続けるのがお坊さんだと思っております。 法昌という法名で、和歌山県の高野山の西禅院が所属寺院ですが、 普段は東京都町田市のマンションで手作りの密壇でひたすら修行を続けている  はぐれ行者です。 伝法灌頂も中院流の一流伝授も授了させていただいております。 娘を持つ母であり、一家の主婦でもあり、親の介護もあったりします。 エッセイや文章、そして漫画家として漫画も描いております。 イーハトーブクリニック萩原医師の指導をいただきヒプノセラピスト(催眠療法士)でもあります。 基本的に隣のおばちゃん的な、でも変わった尼僧です。
ご相談可能な時間はその日ごとに違うので、いくつかご都合を書いてくださいね。 人生で悩んだ時に、最善の答えを与えてくださるご神仏と、あなたは心の奥で必ず繋がっています。ご自身の心の中からご神仏のお答えが受けられるようにアドバイスをさせて頂きます。 ◆著書:「神さま仏さまがこっそり教えてくれたこと」「迷いをすっきり消す方法」「幸せを呼ぶ仏像巡り」

たんたんとなすがよろしい

お礼を頂いて再回答。
ですからそれを「たんたんと行ずる」と申し上げておるのです。
「たんたんと行ずる」とは「淡々、坦々、」これは何気ないようですが人生の極意です。
人が気になる、というレベルは私の申し上げる所のタンタンではありません。
人がどう思うか…と言っておられますが、それが他人の事ではなく「あなたの思いである」ということに気づいてください。わたしだったら、いかに人がとやかく言おうが、たんたん、と自分を貫くだけです。hasunoha内でも過激な回答を繰り返しておりますが、淡々とやっているだけです。
「人の事を気にするのも、人の為にやることも、自分の事をやるにしても、全部、人のことのようであっても「自分をやっているだけ」でしょう。
一生涯人の事等は無く、自分のことしかないのですよ。(これが仏教の悟りの中身なのですよ)
人から何かを頼まれたって、やっているのは本質的に自分です。
人の為とか、自分の為とか、お金の為、~の為、なんてアトからくっつけた理屈です。
今この私の文書を観ているのもあなたでしょう。過去にも未来にも、後にも先にも、一生、自分のことしかない、と知ってください。私は仏教語を用いない主義ですのでタンタンと説いていますが、さりげない回答の中に仏教、禅の極意がちりばめられています。何度か読み返して頂ければ幸いです。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

法昌さま、回答ありがとうございます。
たぶん、「同じやるなら気持ち良くやるということ。」という部分が、いつも問題になっているという気がします。
介護・家事に限らず、仕事でも何でも、「気持ち・気分は関係なく、出来る限りのことを、やるべきことをきっちりとやる」という感じで行動して来ました。だから、「心を込めた方が良い」ということは何度も言われています。そんな私にとって、「笑顔・明るい声」は仕事で使う営業的なものであり、逆に無理することでありストレスになりそうです。
私にとっての「心体共に無理が無い状態」は、マニュアルに沿ったように素材や味や硬さなどを考慮して淡々と作業を行うことです。そして、私の喜びは「今出来る限りのことが出来た満足感」です。しかし、その姿が、周囲からは「無理している」と映ってしまう様なのです。
「出来る限りのこと」なので、裁縫など苦手なことはボタン付けなどの些細なことでも断るし、体調が悪すぎる時は惣菜などを買って来て済ませています。
それでも、周囲からは、「気持ちよく出来ないことはしないで良い」と言われてしまうので、「気持ちよくやっているように見せる努力」が必要なのか、「出来ることはやりたいけれど、我慢してやらない」方が良いのかと悩んでしまいます。 そのあたりに何か、ご意見を頂ければ助かります。

丹下さま、回答ありがとうございます。
私の文章が未熟なために、うまく伝わらなかった様子、言葉・文章は難しいですね。
私の感覚としては、「淡々と自分で納得できる範囲でやっているだけ」という感覚であり、不安はそんなに感じていません。しかしながら、物事の受け止め方は人それぞれであり、私の言動を周囲は「無理をしている、苦労をしている、辛そうに、可哀想に・・・」と見えてしまうようです。
私の感覚と周囲の感覚にあまりにもギャップがあるため、私の言動が周囲のストレスになっているのではないかということです。
そのあたりのギャップの埋め方をどうするべきなのか、自分と周囲とのバランスをどうするべきなのか、ということに対してのご意見を頂ければ、助かります。

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